マイクロフォンの中から。 【エッセイ】
「お腹痛いのでトイレ行ってきていいですか」
アインシュタインのような髪をした白衣の男は、見た目通り物理の先生だった。黒板には有名大学の過去問が書かれている。「ああ、どうぞ」
高校三年生の12月、窓の外は白く染まっていた。学ランの内ポケットに薄い硬さを感じながら、僕はそっとドアを開ける。
授業中のトイレは静かだった。すぐ隣の教室から、先生の声が聞こえる。英語だ。なるほど、選択肢を先に読むと良いらしい。
僕は個室に入って、スマホとイヤホンを取り出した。気がつくとYouTubeを開いている。無意識にこなせるほど、この動作は身体に染み付いていた。
検索欄に「ぶ」と打ち込んだ瞬間、サジェストが目的のキーワードを提示してくる。優秀だ。一番上に表示された動画をタップすると、少し掠れた優しい声が、激しいリズムと共に鼓膜を揺らした。
受験はストレスがかかる。別に失敗したって死ぬわけではないのだし、一生という長いスパンで見ればちっぽけなイベントに過ぎない。それでも、高校生の僕にとっては未来の全てだった。
学校にいる間、僕は不安でいっぱいだった。スマホが禁止された空間で耐えられなくなると、僕は決まってトイレに行くようになった。
あのバンドの、あの曲。いつも聴くのは同じだった。途中で流れてくる言葉を聞くためだ。
「ガンバレ!」
シンプルでありきたり、だからこそ簡単には口に出せない。楽曲だったらなおさらだ。それを許されているのは彼だけなのだろう、と僕は思う。
頑張れ。もっと頑張れ。言うだけなら簡単だ。だから言われるとムカつくのだろう。正面からズカズカやってきて、一言ぶつけてすれ違う。二度と会うことのない関係。
そんな中、ブルーハーツは後ろからやってきた。汗だくで僕に近づいて、優しく肩を組んでくる。やがて背中に大きな手。力強く前に押し出してくれた。それからずっと、彼らは僕を見守ってくれる。
鼻が詰まって、涙に気づいた。学ランの袖は少し痛い。舌が塩分を感じたとき、鏡の中の自分と目が合った。もう少し頑張ってみようと自分に誓う。もう10分は経っているだろうか。顔に溢れた涙を拭って、僕は教室に戻った。
急いで問題に取りかかる。選択肢を見ても数字が並んでいるだけだ。英語のテクニックは通用しない。問題文を読む。「図1のように、原点にマイクロフォンを固定した状態で、——」
図1のマイクロフォンの中から、温かな叫び声が聞こえてきた。
「ガンバレ!」
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