映画『スピード』に見る、資本主義の終焉と加速主義。 【映画評論】
(※以下ネタバレになります。これから観る予定の人はご注意を)
走り始めたら止まれない。
題名にもなっているように、この映画のテーマが「スピード」であることは間違いない。その設定とは、バスの走行速度が50マイルを超えると起爆装置が作動し、それから50マイル以下に落ちると爆破されるというものだ。
これは、資本主義そのものだ。一度スタートを切ってしまったが最後、止まることは許されない。成長し続けろ、稼ぎ続けろ。人や環境に被害があろうと関係ない。目的地なんてありゃしない。走り続けろ、どこまでも。
そしてこの映画で際立っているのが、犯人の要求だ。これほど過激なことをしているのに、要求しているのは一貫してお金だけ。金さえあれば何もいらない。金さえあればなんでもできる。資本主義の考え方そのものだ。
お金を要求する理由も「命懸けで働いてきたのに——」という、いわゆる搾取ってやつ。搾取したなら、金をくれ。
脱出することをためらう人びと。
物語の中盤、ひとりの中年女性が脱出を試みる。それをテレビ中継で発見した犯人ハワードはバスの入口部分を爆破して、女性は亡くなった。このシーンからはいくつものことが読み取れる。
まず、犯人ハワードが女性が亡くなったことを知った時、彼はこう言い放つ。「テレビ時代はありがたいね!」
これは、資本主義の成長とともに拡大してきたメディアの存在を示唆しているのではないだろうか。1994年の映画であるから、Windows 95もなければ、当然のようにiPhoneもない。当時のメディアの最先端はテレビだった。資本主義から脱出しようとする者がいれば、メディアによって晒される。
女性の死を目の当たりにした乗客たちは、脱出を諦めることになる。脱出することを考えることすらも許されなくなるのだ。僕らはいつの間にか、資本主義以外の社会システムを考えることさえできなくなっている。
不幸を見て幸福を感じる。
バスの車内で、女性の死を一番近くで見ていた人がいた。運転している女性アニーだ。彼女は主人公ジャックに胸の内を明かす。
自分の現状を肯定したい時、僕らは不幸な人を見る。あの人に比べたら、なんて幸せなんだろう。そうやって資本主義社会を生き抜いているのだ。会社を辞めたあの人は、生活するのに大変そう。やっぱり雇われてるって最高だよね。SNSを辞めたあの子は、流行に乗れてないからつまらない。やっぱりスマホは欠かせないよね。
解決のカギは”加速”しかない。
ピンチは急に訪れる。数マイル先で道が少しだけ途切れているらしい。さあ、どうする。主人公ジャックは加速を選んだ。スピードMAXでジャンプする。この作戦は成功に終わり、バスは歓喜に包まれた。
資本主義の終焉が見えた時、対処法には様々な可能性がある。そのうちのひとつに、こんなものがある。スピードを抑えればいいんじゃないか。そんなの無理に決まってる。だったらとことん加速して、早く向こう側に行こうじゃないか。この考え方を「加速主義」と呼ぶ。
この加速主義の中で、上手くいくこともある。今だとAIなんかは希望に見える。そんな希望が見えた時、僕らはバスの乗客のように歓喜するのだろう。
持続可能だと思ってた。
舞台は空港へと移される。広大な敷地でぐるぐる回っていればいいのだから、速度の問題は解決だ。そこで主人公ジャックは爆弾の処理に挑むことにする。しかし、爆弾は手がつけられない。さらに、燃料タンクに穴を開けてしまった。事態は急に大ピンチ。まあ、ずっと大ピンチなんだけど。
どこへも行かず、ぐるぐる回る。まさに、近年叫ばれている持続可能な資本主義というやつだ。環境に配慮して長期的に考えよう、そんな考え方。資本主義の問題点を改善しようっていう修正資本主義的な考え方でもあると思う。爆弾処理は失敗に終わった。資本主義の問題も、そう簡単には解決できない。そして気がつけば環境資源は枯渇して、走り続けるための燃料はなくなっていく。
デジタル技術で脱出を。
車内カメラで監視されていたことに気がついた主人公ジャックは、それを録画したものを流すことを思いつく。その作戦は上手くいき、乗客の大半は脱出できた。デジタル最高……なのか?
AI技術やロボットの進化によって、資本主義の次の世界がぼんやりと見えてきたような気がする。万が一、それらの技術を人類のために使うことができたなら、未来は鮮明になるだろう。しかし、今のところは考えられない。IT業界を牽引するテックリバタリアンは、自分のことが最優先だ。僕らもバスの乗客のように新たな世界に乗り移れるのだろうか。それとも……。
バスは終焉を迎える。
全員がバスから脱出できたわけではなかった。主人公ジャックと運転していたアニー、この二人はバスの中に取り残されていた。時間は残されていない。急いでアクセルとハンドルを固定して、脱出の準備をする。その時、バスは制御不能になった。決死の覚悟で脱出を試みた二人は、幸運にも軽いケガだけ。抱き合う二人の後ろで、バスは真っ赤な炎に包まれていた。
資本主義の終わりはどんな風だろうか。「資本主義の終わりを想像することは、世界の終わりを想像するよりも難しい」とは、アメリカの批評家フレドリック・ジェイムソンの言葉だ。バスのように制御不能になって終わるのか、僕らが思いもしない結末を迎えるのか。ともかく、バスは終焉を迎え、事件も解決に向かった。……はずだった。
選ばれたのは”加速”でした。
バスの映像が録画であることに気がついた犯人ハワードは、最後の手段としてアニーを人質にとる(かなり省略をしてしまったけど、観たと思うので気にしない)。彼らは電車に乗り、それをジャックが追いかける。なんだかんだあってハワードを倒した後、ジャックがアニーと助かるために選んだ手段は、またしても加速だった。
加速主義はスリルがある。どうなるかわからない。それだけに、フィクションの世界では好まれる傾向がある気がする。今回のようなアクション映画であればなおさらだ。安定思考の主人公より、一か八かで挑戦する主人公の方がかっこいい。それに、こういうフィクションだと大体ハッピーエンドだ。現実もこうであればいいのだけれど。
再び奇跡的に助かった二人は抱き合い、口づけを交わす。一連の事件を終わりを告げ、資本主義も終焉を迎えた。……と思われた。
物語はまだ終わらない。
幸せを噛み締める二人の周りには多くの野次馬が群がっていた。不思議そうな顔をする人、微笑ましく見つめる人。様々な人がいる中で一際目立っていたのが、カメラを向ける人びとだった。
現在であれば、カメラではなくスマホであっただろうが、日常に起こった特異な出来事に対して個人が持つメディアを向ける行為は、現代と通ずるところがある。考えるに、資本主義の終焉という物語さえも、資本主義の中に取り込まれてしまうのだろう。
映画『スピード』は、1994年に公開された。今年でちょうど30年。僕らが乗るバスは爆弾を抱えたまま、一段とスピードを増して今なお走り続けている。