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龍造寺隆信yearの締めくくりは龍泰寺で@佐賀県佐賀市

こんにちは。肥前歴史研究家(自称)のひとみです。
先日、佐賀市にある平安山龍泰寺で開催された講演会「龍造寺家兼(剛忠)の実像」に参加した時のことを書きたいと思います。

平安山龍泰寺は、肥前の戦国武将で「五州二島の太守」と呼ばれる龍造寺隆信公が自身の菩提寺として自ら縄張り(設計)して建立した曹洞宗のお寺です。明治期に活躍した佐賀藩出身の政治家、大隈重信侯の菩提寺でもあります。
私は今年の6月1日に催行されたバスツアー「龍造寺隆信を再検討する」で初めてお参りすることができました。


*バスツアーの記事はこちら。


*龍泰寺についての解説は、最近公開されたyoutube動画がわかりやすいので、以下に貼ります。


講演会は佐賀戦国研究会の主催で、講師は龍造寺氏研究者の中村知裕先生。
6月2日のシンポジウムでも龍造寺史の講師を務めていただきました。
今回のテーマは「龍造寺家兼(剛忠)の実像」です!

https://x.com/sagasengoku/status/1854209964044349545


ところで【龍造寺家兼(剛忠)】とは?

「龍造寺家兼(享徳3年/1454~天文15年/1546)
水ヶ江龍造寺家の祖、龍造寺家中興の祖。龍造寺隆信の曾祖父。
享禄年間に田手畷の戦いで肥前に侵攻した大内軍を撃退。その後大内氏への内通を疑われ、天文年間に水ヶ江龍造寺家の子息、孫の大半が殺害される。筑後の逃れた家兼は92歳にして再起し、仇敵馬場頼周ばばよりちかを倒し復讐を遂げ、龍造寺隆信の家督継承への道筋をつける。」

<水ヶ江龍造寺家>  
 家兼 ー 家ずみ 周家かねいえ ー 隆信

(本講義資料、及び『忘却の日本史 西日本編  特集号』所載「九州戦国武将ランキング100」P14「龍造寺家兼」の項に基づき筆者が記載。)


92歳にして出陣し馬場頼周に復讐したというエピソードから、youtubeでは「戦国最強じじい」「復讐に燃える超じじい」など呼ばれているようですw

中村先生の講演は、この"戦国最強じじい"である龍造寺家兼公を一次史料(当時の日記や手紙などの古文書)から読み解く、研究の最先端を行くものでした。古文書の読み下しも出てきますが、かといって取っ付きにくくなく分かり易く解説いただき「ここまでは史料に書いてあるのでわかるけれどこれ以上のことは史料になく、現時点ではわからない」と根拠を示しながら明確にお話下さるので、非常にわかりやすかったです。

はたして、龍造寺家兼の実像はいかなる形であったのか?
講演のデータは「WEB版 佐賀戦国研究会」で聴くことができますので、ご興味ある方は是非ご参加ください(私もWEB会員です)。講演会のアーカイブやWEB上での講演会、勉強会も開催されています。

*WEB版 佐賀戦国研究会はこちら。


今年は龍造寺隆信が戦死した「沖田畷の戦い」から440年の記念の年として、佐賀戦国研究会にて様々な講演会、勉強会が開催されました。その締めくくりとして、龍泰寺での講演会は大変意義のある、素晴らしいものであったと思います。
中村先生、龍泰寺様、ありがとうございました!


そして、私が以前から思うのは
「長崎の歴史を学ぶには佐賀の歴史は不可分」
「元は同じ肥前国」
「歴史の勉強を現在の行政区域で分けるのはおかしい」
のであって、私が「肥前歴史研究家」と自称しているのもそこに理由があります。研究者と名乗るには大変烏滸がましく、ただの歴史好きの域を出ない普通の主婦なのですが、今後も一層の精進を重ねていきたいと思います。

最後に龍泰寺の境内の写真を掲載して本記事を終わりたいと思います。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。


龍泰寺山門。朱色の入った優美な山門で、龍造寺隆信の母、慶誾(けいぎん)尼が
創建した慶誾寺より移築したものだそうです。



龍泰寺本堂


大隈重信侯の墓。





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ひとみ
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