#3 ふんわりとした遺言書
これは3日前(2024.3.25)に書いたものである。本当はもう少し寝かせる予定だった。
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死後についての前向きな
今まで生きているうちに何かを残しておきたい、と思ったことはあまりない。
むしろ、残しておきたくない、とさえ思う。
自分が死んだら存在していた事実自体なくなってほしい、と思うくらいだ。これは決してネガティブな感情からではない。
死んだ後の自分、というのは、この世のどこにも存在していない。
なので、思い出したり悼んだりしてもらってもあまり嬉しくはない。そのリソースを他に割いてほしいとさえ思う。
ただ、そのように思い出してくれる人がいるのだとしたら、ありがたいことである。
ともあれ物騒な昨今だ。
物騒に巻き込まれなかったとしても、たまたま泥酔して脚がもつれて、運悪く転んで、運悪く打ちどころが良くなくて死ぬかもしれない。
ただし、今まで泥酔したことはない。酔っても記憶はあるし、きちんと家に帰っている。学生時代はもうバスも無い時間だったので、飲み会の後は5kmくらい歩いて帰っていた。
他にも横断歩道で信号待ちをしていたら運悪く車が突っ込んでくるかもしれない。
または、持病が悪化して死ぬかもしれない。
今は運良く生きていられているだけだ。
いつ死ぬかなんて分からないので、暇で仕方ない時は死んだ後の段取りを考えている。
形跡を残したくないという点では、海に散骨、が理想なのだが、死体遺棄になってしまうらしいので、諦めることにした。
今の最有力候補は、樹木葬だ。
木なら例え誰かが墓参りにきたとしても花とか見てもらえるし、時間の無駄感は少なめだ。
とにかく墓石以外でお願いしたい。
あと火葬の点火の時は、ぜひJAM Projectを流したい。ファイヤー!したい。
欲を言えば、盆灯籠のサイリウムをノベルティにして、出棺の時に参列者に振ってもらいたい。
小さい頃、お盆に祖母の家に行くと、盆灯籠が出ていた時があった。
カラフルにくるくる光るそれを畳に寝転んで眺めるのが好きだった。
盆灯籠のサイリウムは資金の面で少々難しそうなので理想だけに留めている。
法要はあまりやる気がないので、使うのも一度きりになってしまいそうだ。
そもそも寿命を全うする予定になっているが、その後墓参りに来るような人がいるか、というと怪しい。
正直死んだことは知らせたくない。と、思うのだが、それではあまりにも不誠実なので、一応知らせる予定にしておこうと思う。
知らせる方法については、今よりもずっと発達しているであろう情報化社会に期待しておく。
初めに戻ると、死んだ後に何かを残しておきたくない、と思ったのにはきっかけがある。
確か西洋美術史の講義だったと思う。
生前、ゴッホはほとんど世間で評価されることはなく、死後、美術評論家に発掘されたことによって評価を得たという話があった。
それなら生前に見つけてやってくれよ、と思った。
すべては運とタイミングだ。
仕方ないといえば仕方ない。
それよりも生前苦労したこと、苦労を続けながらも画家として死んだこと、が美談のように語られていることが解せない。
評価を得られず死んだことによって評価が高まる、というのはいかがなものか。
もし自分ごととして考えるなら、生前に評価をえられないのならば、作品はすべて棺に入れて燃やしてもらいたい。
死んだ後に、背びれだの、胸びれだの、尾ひれだの、ある価値ない価値つけられて、虚像がひとり歩きするのは、真っ平ごめんだ。
ゴッホがどう思っていたかは知るよしもない。
しかし、自分がしたいことをしていた結果、報われなかったとしても、殉職者のように語られるのは自分としては我慢ならない。
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死については肯定も否定もしない。
嘆いているわけでも、悲観しているわけでもない。
まして、美談にする気や美化する気など全くない。
すべての生物の未来に確実に訪れるもの。
それが死である。
それが3秒後にくるか云十年後にくるか。
到来する時間だけが問題だ。
その点では地震予測と似ている。
最初に書いたとおり、当初、1年か2年か放ったらかしにしておくつもりだった。
ただ、書き連ねたように、いつ死ぬか分からないのでもう公開してしまおうと思う。
今は知らない間にできていた徒歩圏内の5軒目のスタバで借りてきた絵画の素を読んでいる。
なかなかに居心地が良い。たまに来ようかと思う。
しかし、ここから一歩出た瞬間、不幸にも黒塗りの高級車に追突されてしまうことだって、絶対ないとは言い切れない。