議論して相手を打ち負かすのはやめた方がいい
1. 人にはこだわりの価値観がある
マスク賛成派vsマスク反対派ですとか、
糖質制限賛成派vs糖質制限反対派ですとか、
犬派vs猫派ですとか、世の中には様々な対立構造があると思います。
犬と猫のどちらが好きか、くらいの話題ならば私の場合は別に「どちらでもいい。どちらもかわいい。」とこだわりを強く持つことはありませんが、
糖質制限ともなれば、私は強く賛成の立場を主張します。
そのように主義主張が強いこだわりがあって、それと対立するような派閥と向き合ったりしていると、
次第に悪口合戦になったり、罵声の浴びせ合いのようなことになりがちだと思います。
犬、猫の争いだと決してそんな風にならないにも関わらず、です。
しかし、犬猫はともかく、糖質制限などは科学的にしっかりとした根拠で説明すれば、
反対派の人達にもなるべく声を荒げずに丁寧に語りかければきっとわかってもらえるのでないかという考え方もあるかもしれません。
しかし、よくよく考えてみれば、それは幻想であるということに気づきます。逆の立場になればわかることです。
2. 信じている絶対的な価値観の負けは絶対に認められない
今私は糖質制限が科学的に正しい方法だと思い込んでいる状態ですが、
そのような状況において、聡明な相手に何か大どんでん返しになるような糖質制限が科学的に誤りだと認めざるを得ないような根拠を仮に丁寧な語り口で明確に示されたとしたら、
私はそれを「ははー、参りました。今までの私は完全に間違っておりました。」などと言えるでしょうか。
部分的な間違いであれば認めることはあっても、全てを誤りであったと認めることは想像ができません。
それはおそらく、糖質制限反対派の人も同じようなことを思っているはずです。
となると、自分が何かしらの明快な根拠を相手に提示したところで、相手が完全に負けを認めて自分の意見に賛同するということは、
自分が完全敗北宣言をして相手の言う通りに従うのがあり得ないのと、同じくらいあり得ないことではないかと私は思うのです。
そもそも価値観の違う相手の価値観を捻じ曲げることは不可能くらいに思っておいた方がいいです。
そのことがわかっていないと、思い通りにわかってもらえない現状に苛立ち、罵声や悪口合戦になってしまうのではないでしょうか。
それぞれの立場で譲れない部分があるし、こうだと信じるに足る部分があるわけだから、どちらかが100%絶対的に正しいとか、絶対的に間違っているということは、
構造的にあり得ないのではないかと私は思っています。
その意味で、マスクに対する議論も対立する相手を打ち負かそうとするアプローチは、
どれだけ正論を振りかざそうとも、必然的に不毛な結果に終わるので、やるだけ時間の無駄なのですよね。
3. 誰もが得をする有益な議論に発展させるには
じゃあ、互いに対立構造にある両者は互いに分かり合えないまま、それぞれの世界で相容れずにやっていくしかないのでしょうか。
それだと「人類皆兄弟」的な発想は根本的に不可能ということになってしまいます。それではよろしくありません。
そんな時に参考になる思考法に「弁証法」というものがあります。
「弁証法」というのは一見対立する二つの命題の矛盾を解消する、より高次元の命題を見出す哲学的な思考法のことです。
この説明では何が何だかわからないと思いますので、糖質制限の賛成と反対の対立構造を例に考えます。
コツは対立する相手の信じるに足る要素を、相手の立場になって考えてみることです。
言い換えれば、対立する相手の考えの中の「あぁ〜、その点については理解できる」という部分を探すということです。
例えば「糖質制限をやってみたけど、体調が悪くなった」というのが否定の根拠だったとしましょう。
その場合、糖質制限のやり方を間違っていたという可能性は勿論あるわけですが、
ここでは間違っているかどうかは問わず、「やってみて体調が悪くなった」という部分に関しては「それならば反対の立場をとったとしても不思議ではない」と相手に対して一定の理解を示すことができます。
そうなるとこれをヒントに弁証法的に命題を立てるとすれば、
「体調がよくなる食事法にはどのようなものがあるか」
という命題にすれば、糖質制限の賛成派も反対派も両方とも否定することなく、議論を進めていくことが可能となります。
そしてこの命題について考えることは弁証法を使う前までは相容れなかった対立する両者を一緒に取り込んで、
「人類皆兄弟」にとっての解を考えていくことができるので、議論が非常に有益になるのです。
マスク論争においても、同じように弁証法的に命題を導くことが出来ないでしょうか。
マスク賛成派は「マスク装着でウイルスの吸引量が減らせる」ことを一つの主張ポイントにしていると思います。
マスク反対派は、呼吸困難などマスクの不利益に言及しつつ、「自身の免疫力を高めることの重要性」を指摘していると思います。
それならば弁証法的に命題を立てるとしたら、「幸せな人生を送るためにウイルスとどう向き合えばよいか」という命題であればいかがでしょうか。
ある人はマスクの安心を解だと答えるかもしれないし、また別の人は自分が心地よ生き方を解だと答えるかもしれません。
両者はこの命題においては決して矛盾するものではありません。一方でハナから「マスクは絶対だ」などと考えてしまっていると、
この弁証法で編み出した命題の高次元に乗ることさえできなくなってしまうことにも気付きます。
だから有益な議論をしたければ、まず「多様な意見を受容すること」、
そして「誰もが議論に参加する価値を見出せる高次元の命題を弁証法的に導くこと」が大事なのではないでしょうか。
時間を無駄にしないためにも、人類全体に貢献するためにも、
どちらか一方を打ち負かすといった一方的な議論はもうやめにしていきたいと思います。