壊す、遊ぶ。
今年、成し得たいことをやっと見つけた。
それは、徹頭徹尾自分を壊しながら「遊ぶ」ということである。
中学生の頃、能の舞台で見た「熊野」。
実に心が踊って、感動したものだった。
まだ小学生だった妹に頼まれて、音楽祭のポスターを作った。
「風神雷神」の真ん中に、私はこう書いたんだった。
「そのとき 虚空に 音楽聞こへ」
能の舞台である「竹生島」から取った一節だったと思う。
心に残ったフレーズだった。
あの頃私は楽しかった。
創作をするということが楽しかった。
何枚も 絵を描いた。
いろんなものを見た。
いろんな体験をした。
そして感動した。
高校に入り、いよいよ 一層私の創作は本格的になり、韻文と論文ばかり無我夢中で書いていた。
友達などいらないくらいに。
1日タバコ 5箱 吸い、明け方 疲れ果てて眠るまで創作に耽った。
たくさんの本を読んだ。
すべてが 栄養になった。
なんで、私が今年「自分を 徹頭徹尾 壊して遊ぶこと」、こんなことを考えたかと言うと、にのみやさをりさんの写真集「二十代の群像・Sの肖像」に、カウンターを食らうほど打ちのめされたからである。
私は随分と 物分かりの良い、行儀のいい人間として51歳になってしまった。
私の中ではすでに荒々しさはなりを潜め、飛び歩く肉体を失い、「生活」そのものに埋没し、妙に落ち着いてしまった。
それは全く ストイックで、修行を終えた僧侶のような老成でもあり、何事も「つつがなく」行える主婦の処世そのまんまである。
「遊び」を忘れた私は「お金を稼ぐこと」にのみ 頭が 走り、創作はもはや純粋な私の喜びではなく「仕事」という 括りの中にはまっている。
これをすべて壊してしまいたいのだ。
全く 瑞々しくない。
昔息子と貧乏長屋で暮らし、雑多な人種の中で破天荒に揉まれ、我が家のドアはあけっぱなし、様々な 子ども達が勝手に入ってきておもちゃで遊び、長屋の住民たちはそれぞれの国の料理を作り、開いているドアから勝手に入って差し入れてくれ、また 私も 差し入れたあの 乱雑さ。
あの心地よさ。
私は何て整ってしまったんだろう。
常識も 良識も処世のうちに身につき、「できた 奥さん」「いい奥さん」そう呼ばれる。
もっと私は子どもだったじゃないか。
冒険心と探究心と好奇心で、全く色んな事にてんでん バラバラに没頭したじゃないか。
あの心浮き立つ 喜び。
未知のものへの喜び。
もういっそ、「仕事」という 括りを捨ててしまえ。
私は描きたくて描くのだ。
お父さんを黙らせているのは、私のこの硬さである。
お父さんに笑いをもたらすこと、それはかつての自分の瑞々しさを取り戻すことである。
「夫婦」というこのシャチホコばった形式 など、もうぶち壊してしまえ。
私と お父さんはもっと 愉快だったはずだ。
もっと冒険的だったはずだ。
お父さんから気力を削いでいるのは、私のこの「できた 奥さん」というものである。
この暮らしそのもの、仕事のスタイルそのものを、もっと 愉快に してしまえ。
すべてにおいて遊びにしてしまえ。
私はもっと多くに感動したい。
私の思考はもっと不埒でありたい。
純粋に楽しむために。
純粋に生きることを楽しむために。
今のこの修行僧のような仕事の仕方、できた奥さんぶり、過剰なストイシズム。
これらを全てぶっ壊すのだ。
20代の あの頃、すべてが面白く刺激的であった時のように。
私はもっと、もっともっと、「感動して生きたい」。
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