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プロレスと私と息子。

東京ドームで行われた、アントニオ猪木さんの追悼 興行の日。

息子から、東京ドームにごった返す人の写真と、

「弔ってきます!」

と言うLINE が入った。

「母さんのぶんも、弔ってきてくれ!」

返信を入れた。

「おう!」

息子から返信が入った。

これは実は本当は、私も行きたかった 興行である。

小学生の頃、タイガージェットシンと天龍源一郎のファンだった。

ハンセンのラリアートには毎回湧いた。

ロードウォリアーズが登場した時には、その強さにぶったまげた。

テレビは欠かさず見た。

学校では毎日毎日、男子たちとプロレスごっこに明け暮れた。

強くなるためだけに、ジョージアのコーヒーの缶をグリップ 代わりに握力をつけた。

空手をやってる子、柔道をやってる子、もともと喧嘩が強い子、剣道をやってる子、そんな子達の中でも、私は握力が強い方であった。

もちろんプロレスであるから、技を掛け合いながら、ロープを掴む仕草をしたり、床をバンバン叩いたり、ストップをかける合図はある。

そこで一旦技を解いたら、タッグを組んでいる友達に交代するか、続行ならまた1から取っ組み合う。

私たちがプロレスごっこをする時は投げ飛ばされた時怪我をしないように、机と椅子を教室の隅に積み重ねていた。

私がどうしても勝てない奴、よっちがいた。

よっちの一本背負いには、いつも ぶん投げられた。

どう、技をかけようとしても、手と手を組んだ瞬間に ぶん投げられる。

それで私はよっちを師匠と仰ぎ、一本背負い を習った。

私たちは熱かった。

これは学校で一番楽しい、放課後のイベントである。

プロレスごっこのためだけに学校に行った。

みんな好き勝手に名乗りを上げては、順繰りに教室の真ん中のリングのスペースに立ち、プロレスごっこに興じた。

反則技は禁止である。
床はマットじゃなくて「板」なので、頭を打つような技も禁止である。(バッグドロップとか)

そんなふうに ルールがあった。

代わる代わると対戦する。
周りを囲むみんなが レフェリーであった。

勝ち負けは公平である。

そうやって過ごしていた 小学校時代。

小学5年の時、駅前でプロレスの興行があった。

子供という子供が熱狂した。

同じ組の男子たちと、フェンスに登って声を張り上げて応援した。

「本物のジャイアント馬場さん」

「本物のブッチャー」

もう 圧倒された。
この記憶は、永遠に消えない宝である。

ジャイアント馬場さんが亡くなり、私は「ジャイアント馬場さんの追悼 興行」に行ったのだった。

時代がひとつ 終わったと思った。
28歳の時である。

でも アントニオ猪木 さんがいた。
猪木さんが生きている。

まだ 古き良き時代の二大巨頭の一人、アントニオ猪木さんはご存命であった。

「アントニオ猪木さんがいらっしゃる限り、プロレスはなくならない」

そんな安心感があった。

そして、アントニオ猪木 さんが 亡くなった。

スポーツ新聞で「大仁田厚涙のコメント」というのが出ていたけれども、もらい泣きしそうでとてもとても読めなかった。

ジャイアント馬場さんがいて、アントニオ猪木 さんがいる。

幼い私の昭和の象徴であった。

私の血を受け継いだ息子は、プロレスファンになった。そして 先日、私の気持ちも携えて、「アントニオ猪木さんの 追悼 興行」に、有休を使って足を運んだ。

どんな気持ちだったかはわかるよ。
母さんも馬場さんの時、同じ気持ちだったから。

だけども 息子は知らないんだよなぁ。

「リングの上の、アントニオ猪木さん」を。

だってあいつは平成生まれだもの。

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