私が「ペーパー尼僧」になったわけ
さて、よっこらしょと重い腰を上げて…
真面目に書いてみましょうかね。
私は子供の頃から、「おばあちゃん子」でした。
私は子供の頃、団地の1階に住んでいました。
同じ棟の3階に、母方の祖母が住んでいました。
母は仕事をしていたので、子供の頃は学校が終わると祖母の家に行っていました。
祖母は、私によく言いました。
「仏さんに手を合わしといたら、ええことあるさかいな」
…と。
祖母は毎日、仏壇に向かって「おつとめ」をしていました。
ろうそくを立て、線香をつけて…。
私が「般若心経」を暗記したのは、小学校に上がる前だったと思います。
祖母と一緒に唱えるうち、すっかり覚えたのです。
さて、そんな祖母に育てられた私は、お寺や神社にお参りするのが大好きでした。
仏教系の大学に進学したい、と思ったこともあります。
しかし、大学に進学することはかなわず。
私は大人になりました。
そして、私が37歳になる年、大好きな祖母が亡くなりました。
葬儀は身内だけで、というのが祖母の遺言でした。
地元にもお寺はありましたが、ご縁がなく、宗派も違っていました。
なので、私の知人であった尼僧さんに葬儀を頼みました。
知人といっても、私よりだいぶ年上の尼僧さんです。
尼僧さんは、立派な袈裟を身にまとい…
ていねいに読経もしてくれ、身内一同「良い見送りができた」と満足しておりました。
…ところが。
その尼僧さんが、葬儀の後に文句を言ってきたのです。
お布施は、母が渡したはずでした。
そのお布施の金額が、「全然足りてない」という文句でした。
母が渡したお布施の額がいくらだったのか…
私は知りませんでした。
地元の相場金額であったと思います。
尼僧さんいわく、
「あんたのお母さんは『常識』を知らん」
「あの袈裟ひとつとっても、いくらかかると思ってるねん」
「私がここまでの葬式上げるのに、いくらかけて修行したと思ってるねん」
「普通、あれだけの葬式上げたら、〇〇万円くらいのお布施は当然やろ」
…と。
ええ、散々なことを言われましたよ。
ですが、そう言われると仕方ありません。
私は母と相談し、「足りない分」のお布施を届けたのでした。
ちなみに、この尼僧さんは、お寺に所属していませんでした。
修行をして、僧侶の資格を持っていましたが…
普段は別の仕事をしている人でした。
葬儀の後の年忌(ねんき)供養は、葬儀をお願いしたお坊さんに頼むことも多いのですが、私と母はそうしませんでした。
葬儀の後、四十九日のお墓への納骨だけを尼僧さんにお願いして、後は本山で供養してもらうことにしたのです。
私は、葬儀の後の尼僧さんの態度が、許せませんでした。
お布施の額が少なかったのは、こちらが悪いのですが…
あそこまで言わなくても。
(実際は、もっと色々言われました)
それなら。
私は自分で供養するわい。
私は、そう決意しました。
本山には、私が子供の頃からご縁をいただいているお寺があります。
私はそこへ行き、住職にすべてを打ち明けました。
そして、「尼僧になりたい」と。
本来、尼僧になるためには、本山にある専門機関で修行をしなければなりません。
その期間は、半年。
費用もそれなりにかかります。
夫をほったらかしにして、半年も家を空けるわけにはいきません。
すると住職が、
「それなら、とりあえず『得度』だけやっておいて、機会があれば行に入ったらええんちゃいますか」
と言ってくれました。
得度、とは。
僧侶になるための最初の儀式を「得度式(とくどしき)」といいます。
得度式では、まず始めに、出家して僧侶となる決意を問われます。
次に、修行とはどういうことかを教わり、一旦道場を出て、社会や父母に別れの挨拶をし、出家の覚悟(決意)をいたします。
(智積院HPより)
ざっくり、こんな感じです。
まぁ「あなたは坊さんになってもいいよ」という許可をいただく儀式ですね。
「あと2か月ほどしたら、本山の得度式があります。私の弟子として、出家なさったらよろしいかと」
住職は、そう言いました。
出家・得度をするためには、現役の僧侶の「弟子」になる必要があります。
そして、僧侶となる「名前」をいただくのです。
「名前(僧名)」をいただく時、
「ご自分の好きなこと、普段やっていること、趣味などを書いてください」
と言って、住職に1枚の白紙を渡されました。
それを参考に、画数などを考えながら、僧名をつけてくださるんだとか。
おもしろいですね。
ある意味、自分の名前の由来を自分で考えられるなんて。
私は、色々書きました。
音楽をやっていること、植物が好きなこと…
そして、ひと月が経った頃。
本山から、1枚の封書が届きました。
「入檀(にゅうだん)許可証」が入っていました。
これは、得度式の時に必要となるものです。
入檀許可証に、「僧名」が書かれていました。
そこには、
「妙〇」
と書かれていました。
とても、感慨深かったです。
そして私は、ペーパー尼僧となるべく、得度式の日を待ったのです。
祖母が亡くなってから、2か月後のことでした。