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これでいいの?日本の防災!

 今日は9月1日、防災の日。今年の元旦に発生した能登半島地震から8か月が経過した。最大震度7。熊本地震の時の記憶がよみがえった。8年前、私のふるさと熊本も2度の震度7地震にみまわれた。前震直後に現地入り。全壊した実家を目の当たりにした。それから、私は母校の小学校の保健室を医療救護所として、1か月、AMDAの緊急医療支援活動にはりついた。

全壊した実家

想像してみて!

 今年元旦の能登半島地震。1月22日から2週間、輪島中学校で私自身が支援活動をして思ったことは、熊本地震から8年も経つのにあの災害からの学びはなかったのか⁉ということ。災害対応に大きな改善は見られなかったと個人的に感じている。上下水道が止まった中、トイレも数台のトイレカーは配備されたものの、相変わらずふきっさらしの寒い屋外に設置される和式の仮設トイレ。1月の能登半島、想像してみてほしい、雪が舞い、風が鳴く寒さ。そこで外の仮設トイレにあなたは行けますか?

 必然的に発災直後、約600名の避難者の方々は、学校内のトイレをビニール袋に凝固剤を入れて使った。断水。手も洗えない。衛生環境は最悪。

「ご飯が届きました!」

 これは、私より先に現地に入ったメンバーの話。
館内放送で、「みなさん、ご飯が届きました!」
想像してみてほしい!
「ご飯」と聞いたら、「やっと食事が届いた!」と想像するでしょ?
でも実際に届いたのは、本当に「ご飯」だけだった。それもビニール袋に入ったご飯。
そのご飯を土足で入っていた避難所で食べる。その靴でトイレにも行っている。衛生も不衛生も混在した中での不十分な食事。
そこで何が起こるか、想像してみてほしい!

これは、何?

想像してみてほしい、これは何のための袋か?

次々と発生する嘔吐に備えたゲロ袋

 これは、嘔吐に備えた、言うなれば”ゲロ袋”。避難所のあちこちで、嘔吐をする方が次々と増えていく。吐しゃ物のついた物は感染拡大を防ぐためにどんなに新品でも廃棄。1月8日、ノロウイルスは、20人、インフルエンザ2人、新型コロナ感染症、10人。点滴輸液、薬などのご支援も受けて感染症との闘い!

ノロウイルス隔離教室

 そして避難所内の衛生環境の改善。避難所内を土足禁止、トイレ衛生環境の整備など、避難者も含めた多くの方々の尽力、協力の下、感染拡大を食い止めることができた。

土足厳禁への取り組み

にごり湯とシャンプー

想像してみてほしい。
自衛隊風呂!

香川県善通寺の中隊のお風呂

 避難所で自衛隊が設営したお風呂。まずは、介護の必要な方が最初に入り、避難所の方々、そしてそのあとに外部支援者が入ることになる。私たちが入らせていただける午後10時過ぎには文字通り、湯舟のお湯は、”にごり湯”となる。でも、脱衣所も含め、本当に暖かい。何より自衛隊の方々の細かい配慮を感じたのは、中のシャンプーやボディーソープが種類は少ないものの選べたこと。
想像してみてほしい。
避難するということは、避難者の選択肢に大きな制限がつくということを。
シャンプーを選べる。こんな細かいことでも私はうれしかったし、感動した。ドライヤーもあった。当然でしょ?いや、避難所であらゆる意味で「当然」なんかない。
 そして、自衛隊の隊員の方々。女風呂のほうの隊員は、みんな20歳代に見えた。お風呂に来る被災者一人一人に、そして私たち支援者にも「ゆっくりしていってください」などど優しい言葉をかける。彼女たちは、私たち、外部支援者が入った最後の最後に入って、その後掃除。時間は深夜12時近くになる。

我慢、がまん・・・・。


 被災から数週間経っても、避難所の食事は、お味噌汁とお漬物が加わっただけ。それも一日2回。
その後、対口支援の自治体からの炊き出しの提供も始り、1月29日には、”避難者”の方のご尽力でおかずが配布された。

避難者の方の尽力

 避難所には、何等かの事情があって、すぐに動けないお年寄りなどが残っていくことになる。外部支援者の私たちには、何か伺っても「大丈夫、大丈夫」とおっしゃる。「肋骨が折れとるってお医者さんは言ってたけど、サロンパスはってたらそのうち治るよ」と。

そのうち治る・・・?。

 活動中、私は、「ここは日本か?」と何度も思った。どこまで被災した方々の我慢を強いるのかと。ハンガリーでウクライナからの避難者の支援をした時、ヘルプセンターにあったのは、仮設の水洗トイレだった。もちろん照明もついているから夜中でも使える。

ハンガリー、ウクライナ避難者のためのトイレ

被災するということ

 多くの被災自治体の職員が避難生活をしながら災害対応を強いられる。避難所から別の避難所に出勤していた輪島市役所の職員の方もたくさんいらっしゃった。避難所の状況は、コロナ禍でテントや段ボールハウスは導入されたけど、地理的な要因も影響して、支援物資はあるところにはあるけど、ないところには全く届かない。「2週間も同じ下着ですごすなんて、信じられない!。」と一人の医師は言っていた。災害関連死の増加は必至。それなのに、報道もあっという間に能登を忘れた。この後、何年にもわたって、仮設住宅ですごし、何とか普通の生活を取り戻すまで、相当な我慢を強いられるのに。
 熊本地震で家が全壊した私の母は、81歳から84歳まで仮設住宅で独り暮らし。母はよく、ここにいたら気が狂いそうになる、と言っていた。仮設住宅で寝てみるとその閉塞感が痛いほど、天井から突き刺さってくる。「わかるよその気持ち!」と母に伝えたいけど、常に強気な母の気持ちがここで折れたらいけないと、私が母に返す言葉は、素っ気ない。そんな中、被災から2年後、母は父を見送った。
 災害は、災害直後だけ乗り越えれば何とかなると思っている人が多い。でもその後も何年にもわたって、真綿で首を絞められるような、希望の見えない日が続くこと想像してみてほしい。

南海トラフ地震臨時情報は何だったのか。

首相も知事も災害対応担当者も体験してみて!

*狭いダンボールハウスのダンボールベットで寝ることを。
その時に避難してきた自分の親がそこで寝ると想像することを忘れないで。親の体調のこと、きっと相当な荷物!ペットもいるかもしれない。
*雨の中の仮設トイレ。
お年寄りも妊婦さんも小さい子どもも、この足元が濡れたトイレに行くこと、彼らが夜中に、暗いトイレにいくことも忘れないで。新聞紙を便器の横に敷いてそこに座って用をたしてみて!
*実際に自分でトイレにビニール袋をしいて、凝固剤を入れて、用をたしてみて。もちろん、大便も!
その時に、感じる臭いも、汚物廃棄の不便さも、そしてこの溜まった排泄物を処理する人がいることも忘れないで。
*そして、ビニール袋にはいったご飯だけ、段ボールベットの上で一人で食べてほしい。
その時、自分は被災していないことを忘れないで。
そしてたくさんの被災者の涙も忘れないで。

輪島中学校避難所

先月、南海トラフ地震臨時情報が実際に発令されたということで、個人の防災意識は上がったはず。一瞬だけ?いや、あの緊張感、忘れないで。
 加えて、国や自治体の施策として、災害対応にかかわる首相から行政担当者まで、上記を是非、体験してほしい!体験してみて初めて分かる他人事ではない防災対策と災害対応があることを知ってほしい。
それは、被災者の過酷な環境とつぶれそうな心を想像することから始まる!
まずは、今日、ここから!

輪島中学校、感染症、隔離教室の黒板にあったメッセージ
美しい輪島の海を多くの方に見てほしくて。

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