それでも、アメリカに行く!? #2
もちろん、まだ行きません。
だから今日は自分の生い立ちを振り返ってみることに。
ちょうど日本の企業の多くが台湾に進出していた80年代、千葉県民の父も仕事で台湾へ赴任。きっと三、四年の任期だったところを、運良く高雄市出身の母と結ばれ、想定外の10年間の赴任生活に。その間に、2人の次男坊として生まれた自分。日本を知らない半分日本人・半分台湾人として、日本文化に軸をおいて、日本人の友達たちと一緒に幼少期を過ごした。
まだ、台湾に新幹線も無く、台北-高雄間を贅沢したら飛行機で、節約するなら夜行バスで、修学旅行なら自強号(電車)で行き来する時代。まだ高雄市で阪神、伊勢丹といった日系百貨店がブイブイ言わせていた時代。まだTSMCが世界を驚かせたり、鴻海のSHARP買収なんて想像もつかない時代。幼稚園やテレビ、友達や彼らの家庭を通して”見る”、日本という国がとても眩しかった時代。
きっと住んでいる時代や環境、軸を置く文化、家庭の雰囲気、仲のいい友だち、そして何より子ども自身の性格といった、色んな要素か絡み合い、子どものアイデンティティや人格は形成されるのだと思うけど、つまるところ自分は、たかだか3,4歳で、グレた。
よく言う、知りたいこと、分からないこと、興味のない他所の国の情報も、いやでもネットや携帯を通じて入ってくる今。こんな時代に幼少期を迎える同じようなハーフの子ども達には、きっとこんなに早くグレることなんてないのだろう。台湾人の母はとにかく優しくて愛情に溢れていたし、周りのお母さん方より綺麗だったし、自慢の母親だ。台湾のお爺ちゃんお婆ちゃんも、グレてる自分を広い心で受け入れてくれたし、4歳にして父の中国語の発音を厳しく指導しながら、時に兄貴とくだらない兄弟げんかをしながら、時になぜか高雄市の中心地で同居していた猿と、ヒエラルキーの最底辺にならないよう必死に闘いながら、自分は幸せだった。
ただ、ネットも携帯もない時代。4歳の子どもにとっては、自分の手の届く小さな世界が全てだった。お昼休みに隣りからキラキラ見える桜でんぶのお弁当 vs 無造作に詰め込まれた白米とおでんのお弁当。ウサギカットのリンゴ vs 無造作に入った10cm大のスニッカーズ(旨いけど...)。当たり前の様に交わされるジュウレンジャーや仮面ライダーBLACK、ドラクエについての情報交換。こんなどうでもいいことに、4歳の自分は負けた。
自分が初めて日本の地を踏んだのは8歳の時。それまでは、日本語は話すけど日本を知らない、半分日本人。今、幼少期からの人生を振り返ると、子どものアイデンティティの形成、特にマルチカルチャラルな家庭で育つ子どもにとっては、出来る限りバランスよく、どちらの文化も見せてあげることが大切だと心から思う。
台湾のいいところに早く気付かせる、日本が普通であることにも早く気付かせる。気付きがあれば、その子の”せかい”は安心、安定すると思う。加えて、自分のもつ文化以外の、もっと広い世界を見せてあげること。日本とか台湾とか、そんな小さな枠組みに囚われないで、もっと広い視野で世界を見て、自分の軌跡を振り返ることで、初めて子どもは自分のアイデンティティに自信を持てるようになるんだと思う。少なくとも、自分の場合はそこまでして初めて自分のアイデンティティに誇りを持てるようになった。この段階にたどり着くのに、大学を卒業する24歳までかかった...(その間2回留学)
4歳にしてグレた自分はその後どの様に自分の道をまっすぐあるくことが出来たのか。その続きはまた今度。(前段が長すぎた...)
To be continued..