カント『純粋理性批判』覚書きpart2
引き続き『純粋理性批判』の覚書き。前回の覚書きで書いた、まずはこの部分がスタート地点。
人間の認識には「感性」と「知性(悟性)」の二つの幹がある。まず、対象が人間の心を触発し、対象の像を直感的に受けとる。この受けとる能力を感性と呼ぶ。その後、知性によって対象が思考され、概念が作られる。
その上で、感性一般の規則を感性論と呼び、知性一般の規則を論理学と呼ぶ。論理学の中でも一般論理学に含まれる純粋論理学は、すべての経験的な条件は無視し、知性の形式だけを考察する。この形式に注目し思考の機能を分類したものが判断表である。
一方、超越論的な論理学においては、感性論において感性を孤立させたように、知性を孤立させ、認識のうちからその起源が知性だけにある思考の部分を取り出す。ここでは、感性においてアプリオリに与えられた多様なものを素材として、純粋知性概念を作り出す。
超越論的な論理学において、感性論において登場した多様なものは、総合されることで一つの認識を作り出す。総合を行うのは想像力であり、総合を概念へともたらすのは知性の役割である。様々な像を統一して一つの統一性を与えるのが、純粋知性概念である。この、純粋知性概念の数は、先ほどの判断表の数と同じである。
と、ここまで書いて疲れた。ここからは、多くの誤読や誤解もあるかとは思うがざっくりとこれまでの理解をまとめる。おそらく要するに、カントは人間における情報の入力および処理のシステムを描き出そうとしてるのだと思う。世界がありそこに物自体がある。人間は物自体にアクセスすることはできない。人間は物自体の表象を直感によって手にするのみである。このようにして情報を入力するシステムを感性と呼ぶ。システムが成立するには、情報を受容する人間サイドに、その情報を処理する前提がなければならない。この前提となるフォーマットを形式と呼び、感性システムの場合、それは空間と時間となる。
一方、入力された情報、つまり個々の表象は、そのままだとバラバラのイメージに過ぎない。これを統合するのが想像力であり、さらに統合された概念を展開していくのが知性(悟性)である。知性には、個別のパラメーターとしての入力情報とは別に、情報処理をするためのプログラムがすでにデフォルトとして存在している。
なお、感性によって表象が捉えられ、個々の表象が想像力によって一つのものになり、つまり総合され、それが知性によって展開されていく、この知性の構造を経験から全く切り離されたものとして分析する時、それは超越論的論理学と呼ばれる。そして超越論的論理学の形式、先に述べたプログラムがカテゴリー、あるいは純粋知性概念である。
ちなみに、世界に存在する物自体の表象やそこから生み出される概念は、そのままだとバラバラの断片にすぎない。これらを一貫性をもつものとして統合するのが自己統合の意識、つまりは自己意識である。自己意識こそが、システム全体を支える基盤となる。
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