阿保みたいに働いて:Kind of blue
阿保みたいに働いている。仕事との距離をもう少し取らなければならない、という危険水域にいる中で、島田雅彦の『パンとサーカス』と松岡正剛の『日本文化の核心』を読み終える。そして、予告通りに村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読みはじめる。これまた、面白くなりそうな気配がする。
多くの学生の文章を読んでいると、これは内田樹がどこかで書いていたことだが、そして堀江貴文もホリエチャンネルで言っていたが、人は文章を読める人間と文章を読めない人間に大別されることがひしひしと分かる。文章を読める人間が書いた日本語は「読める日本語」になっている。しかし文章を読めない人間が書いた日本語は本当に読めない。一つの文章が長すぎるとか、主語と述語がねじれているというレベルではない。そもそも言葉を紡ぎ文章を重層的に重ね、何らかのメッセージを発するという概念がないのだろう。これは頭の良し悪しではない。言葉を発する際のマナーというものが根本的に欠如しているのだと思う。
おそらく彼/女たちは、あたかも英検3級の生徒が英検1級の英文を読むかのごとく日本語を読んでいる。つまり、目に入った理解できる単語のみをつなぎ、何となく意味を類推する。一つ一つの文章がどのようにつながり、その総体が何を訴えているのかを理解することができない、あるいは理解するという領域が存在することを知らない。
それでも、丁寧にその文章を添削し、粘り強くフィードバックを返していくと、これはある種の大いなる希望なのだが、彼/女のたちの文章は短時間で驚くほどに上達する。決して言語化されることはないかのように思われていた潜在的な可能性、もしくは人間的な魅力が生き生きとその姿をあらわす。こんにゃくゼリーかはたまたプッチンプリンのような、つまりプルプルとした瑞々しい言葉が、大人になってしまっては決して紡ぐことのできないような言葉が目の前に現れる。これは純粋にトレーニングの問題であり、テクニックの問題である。「学ぶ」は「まねぶ」であり、そのような文脈において幼児の頃から丁寧に良質の日本語を音読させる、ということこそが本質的な教育であるような気がする。
という、こんな真面目なことを書くつもりはなかった。Miles DavisのKind of Blueを聴きながら、色川武彦のエッセイを傍らに酒でも飲もうとしていた水曜の深夜。Bill Evansのピアノが本当に素晴らしい。
この身から仕事を多少強引にでも引き剥がす、というのが毎年のこの時期の課題。気がつくと休日返上、毎日オフィス、「顧客のために」という言い訳の元に過剰に働きすぎてチームの内圧を高めていく。抱えている案件があまりにも多いからこそ、松下幸之助の言葉ではないが、「心に縁側を持つ」ことを意識的に心がけなくてはならない。
終バスを逃して乗ったタクシーの運転手から、「具合が悪いなら早めに言ってくださいね」と言われた。よほど顔色が悪かったのか。すでに深夜だが今日は早く寝よう。