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ベイトソン『精神の生態学へ』覚書き part 2
ベイトソンの『精神の生態学へ』の覚書きです。岩波文庫版の上巻を読み終えたところまで。
前回の投稿でも紹介した分裂生成が起きないシステムのあり方の例として、バリ島の社会を分析している「バリ - 定常型社会の価値体系」。その特徴として、ベイトソンは社会全体が動き続け、変化し続けることを挙げている。この辺りは、福岡伸一の動的平衡を思い起こさせる。そう言えば、人間の身体と環境との間の分子レベルでの循環に焦点を当て、世界から切り離された存在としての個人を脱構築しようとしたという点において、動的平衡の概念はベイトソンにも通じるのかもしれない。
「プリミティブな芸術のスタイルと優美と情報」について。芸術は、世の中の事物、あるいは抽象概念を具体的な作品として表象するのだが、その際の変換の仕方に一定のコードがある。コードは、芸術家によって異なるが、その文化によって規定される。そしてコンテンツそのものよりも、このコードこそが注目に値する。
芸術家は作品を創作するときに、いちいち意識して手を動かすのではない。熟練の技能によって無意識的に、すべてが言語化されることなく、あるいは言語の光が届かない領域から作品は創造される。理性のみによって芸術は生まれない。芸術が持つ「優美さ」とは、理性とハート、あるいは意識と無意識の統合にこそある。
ベイトソンによれば、意識あるいは言語も、ハートあるいは無意識もそれぞれの方法でアルゴリズムを持っている。入力された知覚がどのレベルのアルゴリズムによって変換され出力されているのか、感性豊かな批評家はここを見る。
つまり芸術に触れるということは、意識と無意識の両方を包含したホリスティックなシステムにアクセスすることを意味するのであり、「芸術・夢などの援けを受けない孤立無援の意識に、精神のシステム性を感受することはできない」のだ。
ちなみにベイトソンは、コードの「意味」を「パターン」「冗長性(redundancy)」「情報」「拘束」と言い換えている。
なんらかの出来事または物の集合体に、とにかく何らかの方法で”切れ目”を入れることができ、かつ、そうやって分割された一方だけの知覚から、残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができるとき、そこには”冗長性”または”パターン”が含まれることになる。
ここで行われていることは、生成AIにおいて行われていることとほぼ同じなのではないか。
人間の意識、無意識には文化の影響を受けたアルゴリズムが備わっている。入力された知覚はアルゴリズムに従って変換され、出力される。使用するアルゴリズムが意識と無意識の統合的なものであるとき、出力されたコンテンツは芸術と呼ばれる。無意識はその定義上、言語化不可能であるがゆえに無意識のアルゴリズムを理性によってつかむことは難しいだろう。ただ、その原理においてはここで人間とコンピューターは非常に近接しているように思われる。
なお、無意識レベルのアルゴリズムを身体に応用すると、内田樹の武道論に展開するのだろうが、それはまた今度。