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Weekly Ochiaiとベイトソン

ベイトソンの『精神の生態学へ』を読み終えようとしていた水曜日、いつも通りWeekly Ochiaiを開いたらなんとベイトソンの特集回、しかも『精神の生態学へ』の訳者である佐藤良明氏がゲスト、ということで、シンクロニシティを感じる。佐藤氏が用意していたベイトソンの解説スライド、できることならばいただきたいくらいです。

佐藤氏の解説を聞いていて感じたことは、結局バリ島にいたころからベイトソンはサイバネティクスを志向していたんだな、ということ。ある刺激に対して、それを抑制するような反応を起こすことでシステム全体としての恒常性を保とうとする、その自己修正力こそが重要で、それが壊れてしまったときに「分裂生成」が加速する。これは現在の世界のポリティクスにも応用可能で、例えばロシアとウクライナ、あるいは中国と台湾にしても、双方が相手方から受けた刺激に対して、それを上回ろうとする刺激を返しつづける限り、システムは崩壊の方向にしか向かわない。

そもそも、主体の可能性という問題意識からたどり着いたベイトソン。岩波文庫版の下巻に至り、ようやく元々のテーマに触れることができた。曰く、「わたし」は世界から切り離された独立した存在ではない。ベイトソンの言うところの「精神」、つまり情報を巡らせる広大なシステムの一部に「わたし」は存在する。皮膚の内側に限定された「わたし」の脱構築、というのはいまではかなり一般的な気がするが -- 例えば動的平衡としての「わたし」とか、ミシェル・フーコーが『言葉と物』の最後に提示した主体とか -- 当時は革新的な考え方だったのかもしれない。

ベイトソンの語る大文字の「精神」の一部としての「わたし」という考えには、それでもなんだか他の思想家にはない救済の手触りを感じる。ベイトソンが語る「精神」は世界全体を覆いつくし、それはベイトソン自身が語るように「神」という名で呼ばれているシステムに限りなく近接する。ウェーバーの分析によれば、禁欲的プロテスタンティズムの下でかつてない孤独に突き落とされた人間は、自らが神から選ばれた存在であることを証明しようとしてストイックに労働に従事した。一方でベイトソンの唱える主体は -- これはスピノザにも近いぬくもりを感じる気がするのだが -- 自分を超えた大きな存在に包まれている。ニーチェが描いたツァラトゥストラほどに人間は強くはなれないので、こういった包み込む存在というのは、現実を生きていくうえで必要な気がする。ミューミューと鳴く猫のように。

それから、ベイトソンが定義する芸術のミッションというのも面白かった。芸術は近代的な自我に捕らわれた個人が世界の「精神」を感知するための手段である、というあたり。ロシアフォルマリストの「異化」ではないが、確かに芸術はいま見えている世界を変容させ、提示する力を持つ。世界はこのようにも解釈されうるのだ、という、その選択肢を認識するだけでもやはり人間は救われる。世界の様々なレイヤーを移動する自由を持つ、ということが人間には必要なのかもしれない。他言語を学習するということは、生来の環境にいては把持することのできない世界のレイヤーを知る、ということなのだろう。

Weekly Ochiaiのなかで佐藤氏が言っていたように、ベイトソンが生きた時代の空気感がアメリカの西海岸においてやがてコンピューターを生み出す土壌となる。大学院時代の留学先が五月革命の発祥の地、パリ第10大学だった。また仕事でスタンフォード大学に一週間くらい通ったこともある。ああいう土地からこういうムーブメントが生まれたのね、という感覚は、あと付けかもしれないが、ないこともない。

そして第四次産業革命を経て生成AIの登場にまで至った現在。ベイトソンの世界観はここからさらにアップデートされてしかるべきだろう。芸術に関していうのであれば、アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表してからちょうど百年目にあたる今年、意識と無意識と主体と環境とLLMと生成AIを統合するような、シュルレアリスム宣言2.0が提唱されてもよいのではないか。


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