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昨日より遠くまで泳ぎたくて、一人で沖まで出たけれど、波はどんどん高くなって、水はどんどん冷たくなった。振り返ると陸地は遥か遠くにあって、家族の顔は米粒くらい。高くて黒い波にさえぎられた僕は、気がつけば大海原にひとりぼっちだった。突然不安に襲われて、ただひたすら溺れないように、バタバタともがいていたら、ふと自分の足下が気になって水中メガネで海の底を覗いてみた。海底は遥かに遠く、まるで空を飛ぶ鳥になったような景色で、見たこともない大きなウミヘビがニョロニョロと、僕の足下を我が物顔で通りすぎる。四方をクラゲの群れに囲まれたとき、はっきりと感じた別世界は、幼な心にそれは異様で不気味に映ったが、とても神秘的にも見えた。その後すぐに、慌てて家族のもとに戻ったけれど、そのときの感覚は誰にも話さないまま心に沈めて大人になった。
*
30年が経ち、今度は自分の家族を連れて海水浴に行った。3歳と0歳の娘は砂遊びに夢中だったので、僕は妻に娘を託して沖へ泳いだ。あの頃のように沖まで泳いでも、もう恐怖は感じない。海は海でしかないと思っていた。久しぶりの休日、久しぶりの海、キラキラと反射する波を越えて、自由気ままに僕は泳いだ。
そのとき背後で娘の声がした。僕は驚いてすぐに振り返ったが、高い波にさえぎられて一瞬何も見えなかった。ただあるのは広くて眩しい青い空と、あの日と同じ高くて黒い波。
「パパー」
やはり3歳の長女の声がして、僕の中の何かが嫌な予感に押しつぶされそうになる。
「ラコだめ~っ」
(※ラコというのは長女の愛称である)
今度は妻の叫び声がしたと同時に、やっと大きな黒い波の海面が下がってきて、家族がいる砂浜が見えた。
その瞬間、全身に電流が走って僕の時間が止まったように感じた。どうやら長女は妻が妹の相手をしている一瞬のすきに、浮き輪に乗って僕の後をついて来ていたらしい。そして今、浜辺から15mほどの海の上で、波に揺られながら笑顔で僕を呼んでいる。僕の場所は娘の場所からさらに沖へ30m、浜辺では青い顔をした妻が何か叫んでいる。妻は0歳の次女がいて離れられないようだった。
僕は止まった時間の中をもどかしく泳いだ。神様どうか娘を助けてくださいと祈りながら必死で泳いだ。どうかどうかどうか娘を連れていかないでと心の底から唸るように、スローモーションの時間の中で、重たい波をかき分けて、全身全霊を込めて娘の方に泳いだ。次の瞬間、波が娘を隠したと思ったら、もうそこに娘の姿はなかった。浮き輪ごとひっくり返って、二本の足が空を指している。逆さまになった頭は海の中に埋まってしまっていた。
そして現実とも幻ともつかないグニャグニャの時空の中で、妻の叫び声と僕の声にならない何かが頂点に達した次の瞬間、考えられないような奇跡が起きた。娘の体がまるで誰かに優しく抱きかかえられるように、逆さまに沈んだ上半身がスローモーションで海面上に起き上がってきたのだ。その光景に僕は唖然としながらも、とても不思議な温もりを感じた。
やっとの思いで娘のもとに辿り着いたとき、僕の時間の早さはもとに戻っていた。岸に上がり、両親にこっぴどく叱られたり抱きしめられたりした娘は、わけが分からず泣いていたが、僕もしばらく震えが止まらなかった。あのとき海の中で、一体何が起きたのかは今でもよく分からないけれど、娘が海面に上がって来たときの、あの強烈で尋常ではない瞬間の出来事は、間違いなく奇跡と呼べる現象だったし、その時に感じたあの温かい何かに対しては、今でも思い出すたびに感謝しかない。
子どもの頃から何とも異様で不気味で神秘的だった海。今でもあの黒い波を見るたびに、僕はふと畏怖の念にかられ、海は本当は生き物なのかもしれないと手を合わせたくなる。