未来の哲学のためのプロレゴメナ ドゥルーズ=ガタリからシャルル・フーリエへ

ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリによる『アンチ・オイディプス ~資本主義と分裂症』市倉宏祐訳の河出書房新社単行本、または宇野邦一訳による河出文庫、この本は「欲望機械」の章から始まっていて、カール・マルクスとジーグムント・フロイトを結合し、連結と切断からなる複数の欲望する諸機械から、現代社会を解明しようとする。マルクスとフロイトを結び付けるというアイデアは、先駆的にはヴィルヘルム・ライヒが行っているし、フロイト左派がやっているので目新しい事ではないが、ジル・ドゥルーズが、構造主義-記号論-ポスト構造主義の流れに位置しており、ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』新潮社、とともに、欲望のコード化=整流化を行っている権力の分析論として読めるように出来ていること、また、エピクロス-スピノザ-マルクスという唯物論の流れに位置しており、アルチュセールの『再生産について』平凡社ライブラリー、に見られる国家のイデオロギー装置論の延長で、資本主義について、装置ではなく動的な機械或いは工場として、イデオロギー機械分析を行ったものとして読むことが出来、哲学史の読み直しでベルクソンから「差異」を、スピノザから「力能」と「強度」を、破壊的な「価値転換」の果てに見出される「超人」を見出した人間が、「差異」と「力能」と「強度」を解放すべく、マルクスのように病理の無い正しい社会に欲望を再帰還させるのでもなく、フロイトのように病理の無い正しい家庭に欲望を再帰還させるわけでもなく、ニーチェのように野蛮に、反文明的かつ反弁証法的に破壊的価値転倒を行い、正しい家庭や社会に帰ることなく、地の果てへの逃走=闘争を展開することへと誘惑し、フェリックス・ガタリというラ・ボルド病院で、ジャン・ウリとともに制度論的精神療法を行い、政治的アクティヴィストでもある人間と組んで、知という象牙の塔ではなく、様々な諸問題への介入を試みたことが重要で、ジャン=フランソワ・リオタールの『リビドー経済』法政大学出版局、とともに新しい学問領域を開いたというべきなのだが、私が特に関心を惹かれるのは、第三章の「未開人、野蛮人、文明人」で、ここでドゥルーズとガタリは、文明について欲望の差異・力能・強度の開放度の観点から、1.コード化された野生の原始土地機械、2.超コード化された野蛮なる専制君主機械、3.公理系によって脱コード化を制限された文明資本主義機械という図式を提示していて、観点が欲望の開放度なので、例えば中国や北朝鮮の体制は、文明資本主義機械を超えようとして、実は超コード化された野蛮なる専制君主機械になってしまっている社会と、従来のマルクス主義=進歩主義という見方に捉われず、冷徹に実態を見極める事が出来て便利なのだが、この図式にはネタ本があって、市倉宏祐著『現代フランス思想への誘い』岩波書店、151頁で、アントナン・アルトー『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』白水社、小説のシュルレアリスム、または河出文庫の注釈であるとされていて、多田智満子訳の白水社版を紐解くと、第一部が「精子の揺籃」で、これが1.コード化された野生の原始土地機械に対応し、第二部が「原理の闘争」で、これが2.超コード化された野蛮なる専制君主機械に対応し、第三部が「アナーキー」で、これが3.脱コード化に対応していることがわかるのだが、観点を変えて柄谷行人著『世界史の構造』岩波現代文庫、のように交換様式から見ていくと、柄谷では、交換様式Aが互酬、交換様式Bが再分配、交換様式Cが商品交換になっていて、交換様式Aはレヴィ=ストロースが描いているような歴史的変動が見られない部族間の円環的な構造、交換様式Bが、超コード化された一点に一旦、財が集中し、そこから再分配される社会、交換様式Cが資本主義的商経済を指すので、ドゥルーズ=ガタリに対応させると、柄谷の交換様式Aが、ドゥルーズ=ガタリの1.コード化された野生の原始土地機械に、交換様式Bが2.超コード化された野蛮なる専制君主機械に、交換様式Cが、3.公理系によって脱コード化を制限された文明資本主義機械に対応していることになり、未知の交換様式Dは、制限なき脱コード化によって、欲望の差異・力能・強度が解放され、多種多様性とリゾーム性が実現された愛の空間という事になる。ここでジョルジュ・バタイユ『呪われた部分 普遍経済学の試み』二見書房、ちくま学芸文庫を導入すると、太陽エネルギーの過剰と蕩尽からなるバタイユの経済観は、これらコード化-超コード化-脱コード化を通底する基礎理論となると同時に、正常/異常の際立つその世界観は、とりわけ2.超コード化された野蛮なる専制君主機械の分析に適していると考えられる。仮に3.公理系によって脱コード化を制限された文明資本主義機械を分析するとしたら、ジャン・ボードリヤールのように、記号の消費という観点を導入すべきだろう。では、資本主義のさらなる先、未知の、まだ実現されていない交換様式D、または制限なき脱コード化を想像するにはどうしたらいいのだろう。そこで導入されるのが、バタイユとともに異端の経済学で、かつ『呪われた部分』と違って、まだ評価の定まっていないピエール・クロソウスキーの『生きた貨幣』青土社であろう。マルキ・ド・サドを背景に持つバタイユに対し、バタイユの盟友ピエール・クロソウスキーは、シャルル・フーリエを背景に持つ。ピエール・クロソウスキーは、バタイユとともに「アセファル=無頭人」グループの一員であり、かつ『ニーチェと悪循環』や『バフォメット』を通じて、ジル・ドゥルーズとも繋がっていた。シャルル・フーリエは農業アソシアシオン=ファランジュを提唱した社会主義者だが、情念引力論を展開した『四運動の理論』、1967年になって公開された『愛の新世界』といった著作があり、その奇怪で複雑な妄想世界は、シュルレアリストにも評価された。フーリエは、科学的社会主義を自称するマルクス主義者には、空想的社会主義者と云われたが、『愛の新世界』にみられる食と性愛に関するあらゆる差異を享楽しようとする快楽主義は徹底しており、ファンタスティックなまでに唯物論的である。サドやバタイユの文学空間においては、正常/異常、禁制/侵犯の二項対立があり、涜神的な行為であるほど高揚するというようになっている。対して、フーリエやクロソウスキーの世界では、変態のグラデーション化が起きており、正常と異常の境界線が曖昧になり、正常もまた異常のバリエーションのひとつになり、模造=シミュラクラが模造=シミュラクラを生み、異常と異常が反応し合い強度が生じ、微細な差異を唯物論的エピキュリアンとして堪能するようになる。フーリエやクロソウスキーの描く世界は、極端なモデルケースであり、人によって別の夢幻世界を描いても良いし、フーリエ的世界が無間地獄に思える人がいても良いが、欲望の整流化がなくなり、あらゆる方向への多種多様な生成が完全肯定される脱コード化、交換様式D、無限に放射される愛の新世界について、示唆を与えるに違いないだろう。



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