SDGsは社会的な押し付けか。
人、特に日本人には、社会や権力に対して陰ながら反発することを美徳とし、それを知性の象徴とみなす傾向があると思う。そしてその反発の対象に使われるのが、近年広がっている人権や環境運動だ。
僕が思うに、人々にとっては、これらの考えは、権力者やバカな大衆が、我々に暴力的に押し付けているものとしか映ってないのではないだろうか。
この考えはネットを中心に広がり、知識人も染まり、日本の風潮となり、もはや世論の域にまでで達してしまっている。
僕がここで言いたいのは、この風潮は根本的に間違っているという事だ。
まず人権や環境に対する考えは、バカな国民と権力者が押し付けようとしてくるのではなく、むしろ市民による運動そのものであり、少数派を擁護し、これまで無視されてきた「罪」を犯すのをやめようというものだ。
つまり権力者と馬鹿な多数派(社会)が良識な少数派に暴力的に押し付けているのではなく、
どっちかといえば、良識な少数派が、権力者と馬鹿な多数派(社会)と戦っているという構造なのだ。
社会と権力者に対する抗議、いえば市民革命に近いものだ。
(ちなみにこれに対しては、知識人的な目線で大衆は馬鹿であるという主張がなされることもあるが…これは割愛する)
フランス革命に例えるとすれば、市民の間で民主主義が広がるも、それを危険だと保守主義の国民も多く、一方で過激な論を説くものもいる。王に忠誠を大昔に誓っている知識人もいれば、民主主義を問く若い知識人もおり、その影響は年配の人までも広がっている。公的機関も、少しずつ民主主義は理想の状態だと認識し、その新しい目線でその職務に努めている。
それが今の時代だと思う。
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皆さんには、これらの話を聞いたうえで、環境問題やLGBTQ+, フェミニズム,SDGs に対するイメージが、本当に現実に沿ったものなのか、
そのイメージはどこで植え付けられたのかを、一度考えてみてほしい。
ネット環境の整備によって、議論が急速に進むようになった現在。
人類は固定化されたマスコミ以外からの情報の取得が可能となったが、ネットでは多様な立場の意見が混在する一方で、資本主義化と大衆主義が横行し、利益主義により固定化された「多数派の意見」が最も我々の目に入ってくるようになってしまった。
今の時代、情報リテラシーという言葉では片付けられないほどに、世界のメディアの状態は複雑化していっているのだ。
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