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「社会的闘争論」

0. 箇条書きまとめ

  • 社会は学歴、地位、金銭などの「社会的価値」に基づく競争に満ち、個人の価値が他者の評価で判断されがち。

  • 昔は自然が恐怖の対象だったが、現代では「他者の評価」や「社会的な地位」が恐怖に変わり、「常識」に従うようになった。

  • 自己価値の追求は短期的な利益よりも持続可能な社会の成長や創造性を促し、社会全体に貢献する。

  • 評価に縛られない自己の居場所(庭園)を作ることで、自分らしく生き、社会に貢献できる。

  • 競争は自己の成長を重視し、協力を伴うものであるべきで、単なる勝敗ではなく、社会全体の発展に寄与する。

  • 社会的評価を超えた「友愛」の意識が生まれることで、互いを仲間として支え合う社会が実現できる。

1. はじめに

現代社会において、私たちは「社会的闘争」の渦中に生きている。学歴、金銭、地位といった社会的な価値基準が私たちの生活のあらゆる場面で競争の対象となり、個人の価値が他者と比較される中で測られている。この競争構造の中で、自己の存在意義は他者から与えられる評価に依存しがちであり、自らの価値を自分で定義する機会が失われてしまっている。ここでいう「社会的価値」とは、こうした外部から与えられる評価基準のことを指す。

では、このような社会的価値をめぐる闘争は、私たちに本当の幸福や社会の成長をもたらしているのだろうか。社会的価値の中に閉じ込められることで、人間は他者と比較することに執着し、自己の本質を見失っているのかもしれない。本論文では、この社会的闘争の本質を探るとともに、社会的価値への依存から解放され、自己価値を見出すための道筋を模索することを目的とする。


2. 社会的闘争と常識と社会的価値の起源

まず、社会的価値がどのように形成されたかを考察しよう。太古の時代、人間は自然との闘争の中で生き延びるために、「死」などの恐怖から逃れる術を身に着けてきた。生存のための知恵や行動規範は、厳しい自然環境の中で築かれ、共有されることで集団を守る手段となっていた。しかし、人類が集団生活を経て定住し、国という大きな単位の中で暮らすようになると、人間の恐怖の対象は次第に変化していく。それは自然から、社会の中での他者、つまり「人間関係」や「集団内での地位」へとシフトしていったのである。そして、生き残るための術もまた、人間関係の中で自らを守る方向へと再編成された。

こうして、人々はかつての自然法則に従うのではなく、権力者や多数派が定める法則に従うようになっていった。ここに、いわゆる「常識」という概念が生まれ、社会の秩序を維持するための共通の価値観が形成されることとなった。そして、階級制度を伴う集団生活の中で、人々は自らの身分や評価を守るため、あるいは向上させるために、恐怖に駆られて社会的な闘争に身を投じるようになったのである。

では、この「恐怖」とは何か。それは、かつて自然が持っていたような絶対的な力であり、人間の生存を脅かす存在といえるだろう。ここでは、この絶対的な恐怖を、トマス・ホッブズの言葉を借り、「リヴァイアサン」と名付けることにする。

「常識」は、権力者やリヴァイアサンへの恐怖から生み出されたものであり、権力や集団に対する妄信的服従の心理、すなわち権威主義的なパーソナリティーの価値観を内包している。これは、反社会的勢力が崇拝と排外の精神を原動力とするのと同様であり、表面的には「正常な社会」として機能している常識もまた、根底に同じような原動力を持っているといえるだろう。

我々はリヴァイアサンへの恐怖から、社会的な闘争に駆り出され、他者を社会的価値によって判断し、あるいは先天的な価値に基づく差別が生じることがある。しかし、現在の日本において、果たしてリヴァイアサンは本当に存在しているのだろうか、それとも存在していないのだろうか。実際に存在しているのは、リヴァイアサンを信じ、その権力を代行する「リヴァイアサンのしもべ」たちだけである。彼らはリヴァイアサンの存在を信じ、リヴァイアサンへの恐怖を共有しようとし従わない者に制裁を加えようとしている。しかし、実のところ、人権が保障され、地理的制限からの脱却が保障された現実、リヴァイアサンは既に死んでいるのである。
しかし死んでもなお、リヴァイアサンを代行する僕が存在し、私たちの社会におけるさまざまな闘争や対立を引き起こしているのだ。リヴァイアサンの存在を信じることで生まれる恐怖や差別は、実体のないものに対する恐れに過ぎない。私たちはその幻想から解放される必要がある。

したがって、私たちはこのリヴァイアサンという幻影、すなわち「社会的価値」や「常識」から解放される必要があるのかもしれない。多くの人がリヴァイアサンの存在を信じることで、社会的な価値基準や評価に従うことが当然とされ、個々人の自己価値を脅かすような社会構造が維持されている。だが、もしリヴァイアサンが実在しないとすれば、そこから生まれる社会的価値もまた虚構に過ぎず、それに従うことで得られる幸福は一時的なものでしかないだろう。

この虚構に依存することで、私たちは他者と比較することに価値を見出し、自己を否定し、他者を否定することでしか自分を肯定できなくなっているのかもしれない。そのため、社会的価値観に基づいた幸福が、むしろ自らの幸福感を奪い去る一因になっているといえる。この「ウイルス」のように蔓延する社会的価値への依存は、自己の幸福を抑制し、人間関係の摩擦や対立を生むだけでなく、心の平穏をも損なう可能性がある。

このような状態から抜け出すには、社会的価値への盲目的な信仰を見直し、自己の内なる価値を再発見することが不可欠である。他者と比較することなく、自らの価値を見出し、自分らしさを肯定することが、リヴァイアサンの影から解放される第一歩となるだろう。


3. 自己価値の追求がもたらす社会的利益 - 資本主義への反論

資本主義においては「社会的価値への競争が経済成長を牽引する」という主張が一般的である。しかし、この競争原理がもたらす成長は、必ずしも持続可能ではない。競争に勝つために効率と生産性を極限まで高めることは、短期的な利益を生む一方で、長期的には社会に様々な負担をかけることが少なくない。たとえば、過剰な労働による精神的ストレスや疲弊、あるいは環境汚染や資源の過剰消費は、社会全体の幸福度や持続可能な成長を損なう要因となり得る。経済的データも示すように、競争が激化するほど、社会の格差は広がり、個人の精神的な健康状態も悪化しやすくなるという傾向が見られる。私たちはいつ、「身体的精神的幸福」という人生の目標を忘れたのだろうか?

自己価値の追求に基づく成長は、これとは異なるアプローチを提供する。経済学者リチャード・フロリダの「創造経済」理論によれば、経済発展の鍵は創造的な労働力であり、個々人の内なる価値やアイデアが尊重され、自由に表現されることで、より持続的なイノベーションが生まれるとされる。たとえば、自己の価値観に基づいて新たな技術や製品を開発した企業は、他の企業との差別化に成功し、独自のブランド価値を構築できる。これは単なる短期的な利益ではなく、長期的な市場での優位性と安定的な成長につながるものである。

また、経済的には、内面からの価値追求による創造的活動は、単純な生産性競争よりも長期的な投資価値が高いといえる。例えば、企業が従業員の自己実現を支援する文化を促進することで、従業員のエンゲージメントや生産性は飛躍的に向上する。実際、自己価値を尊重する企業文化を持つ企業の方が、従業員の離職率が低く、長期的な業績も安定することが、複数の研究で示されている。これは、競争に依存した短期的な利益追求の限界を示していると言えよう。

さらに、自己価値の追求を通じて生まれる創造性は、環境や社会の持続可能性にも配慮される傾向が強い。例えば、アーティストやクリエイターが自己表現を通して発信する作品には、しばしば社会問題や環境への関心が反映されており、他者との競争に依存せず、独自の視点から社会に新たな価値をもたらす力がある。こうした取り組みは、経済的な利益に加えて、社会的および文化的な利益をも生み出し、全体的な社会福祉の向上に貢献する。

このように、自己価値の追求は短期的な競争では得られない多様な価値を社会にもたらし、結果として経済の安定的な成長を支える可能性がある。


4. 「居場所」の創造と「庭園思想」

では、私たちはいかにして社会的闘争から解放されることができるのだろうか?一人で社会的闘争や外部の評価に抗い続けるのは非常に難しい。しかし、その答えの一つとして「居場所」を創り出すことが挙げられる。ここでいう「居場所」とは、他者の評価や競争に左右されることなく、相互承認の元、自己価値を表現し、自分らしく生きられる場である。この居場所は、自己価値を追求する過程で築かれるものであり、他人と比較されない安定した基盤、そして自己実現の場となる。

こうした自己価値の追求による居場所及び実績である精神的、物理的、人間的空間を、ここでは「庭園」と呼ぼう。庭園は、外部からの圧力やリヴァイアサンに対する恐怖から解放された空間であり、私たちが自由に「ガーデニング」、すなわち自己価値を耕し、育てる場である。これは、他者との競争を超えた安定的な幸福感を生み出し、他者との友愛的な繋がりを促進させ、そこで得られた成果や創造物を社会に還元することも可能にする。

社会心理学の観点からも、この「庭園」の意義は裏付けられている。マズローの欲求段階説によれば、自己実現は人間の基本的な欲求の最高段階に位置づけられており、他者の評価や競争ではなく、自らの内面から生まれる満足感が人間の幸福を深く支えるとされる。また、社会的排除や孤立が人々に与える影響を示す研究によると、人は自己を受け入れてくれる安定した「居場所」に属することで、ストレスが軽減され、精神的な健康状態が向上することがわかっている。

さらに、こうした「庭園」での活動は社会にも大きな利益をもたらす。例えば、クリエイティブな自己表現や自主的なプロジェクトは、文化的な価値を育み、他者にとって新しい視点やインスピレーションを提供する。これにより、競争による短期的な利益だけでなく、社会全体の幸福や連帯感が醸成されるのだ。私たちが「庭園」を耕し、自らの幸福を育て、それを社会に還元することで、個人と社会の双方が豊かになり、持続的な成長に貢献することができる。

このように、リヴァイアサンや競争から解放された「庭園」を作り、そこで生まれたものを社会に還元することは、自己の幸福と社会全体の利益を同時に実現する持続可能な方法であると言えるだろう。

社会的闘争の中で得られる居場所は、他者が決めた基準に基づくものでしかない。しかし、自分の価値観で生きることができれば、他者との関係性もより豊かになるのではないか。


5. 社会的闘争を短期的な手段として利用する

社会的闘争から完全に脱却することは、現実的な視点から見ると非常に難しいかもしれない。人が庭園を造りたくても、そのためにはまず生存に最低限必要な金銭的資源が欠かせないため、その基盤がなければ何も始められないのが現実である。したがって、生活に必要な基盤を構築するためには、短期的な競争を利用することが求められている。このようにして得られた資源や安定は、一時的に資本主義のシステムに依存することを通じて実現可能である。その後、自身の価値の追求へとシフトすることが非常に重要であると考えられる。この過程を経ることによって、単に経済的な安定を得るだけではなく、自分自身の内面的な価値を見出し、さらに他者との関係性を再構築するための新たな道が開かれるのではないかと期待される。裕福さや安定は必要不可欠な要素であり、その後の人生の質に大いに影響を与える要因となるため、短期的な視野に立つことが今後の人生において重要な一歩であると考えられる。


6. 競争の再定義と新たな社会形成

ここで確認しておきたいのだが、我々は社会的闘争ではない、夢に基づく競争を否定しているわけではない。しかし、競争についての考え方を見直すことが今の時代に求められている。競争は単なる他人との優劣を競うものではなく、自分自身の成長を重視するものとして再定義されるべきだ。自己の成長に基づく競争は、個人の能力向上を促し、それがひいては社会全体の発展にも寄与するだろう。

この自己評価を重視する形の競争は、単に勝ち負けを争うだけのものではなく、 他者との協力や理解を呼びかける要素を持つ。協力を通じて得られる知識や経験は、持続可能な社会を築くための確固たる基盤となる。新たな競争の枠組みによって、個々の成長はもちろん、社区全体の連携も強化され、より良い社会の実現に向けた一歩が踏み出せるのだ。

7. 友愛の推進との関連性

自己の内なる価値を見出すアプローチは、他者と真に協力し合うための基盤となる。自分を社会的価値や他人との比較で評価しないことで、他者を単なる「グループ」や「社会的な評価基準」によって判断する必要がなくなる。そうすることで、他者を評価の物差しで見るのではなく、個人の人間として、人道的に捉えることが可能になる。この視点の変化は、自己価値の追求が他者との「友愛」や「相互支援」の推進につながる理由だ。

さらに、社会的な価値に基づいた評価や優位性の競争から解放されると、他者に対する真摯な関心と寛容が生まれ、純粋に共にいることの喜びを感じられる。こうした自己価値の確立によって、他者との関係は利益や地位のためのものではなく、相互理解や共通の目標に向かう一体感を育むものとなる。この友愛の精神が広がることで、社会全体の豊かさもまた深まっていく。

自己価値に基づく視点を持つ人々が増えることで、個人が自分の「庭園」を育みつつ他者と支え合う環境が生まれる。個人の成長は社会の成長にも寄与し、共に成長する仲間としての意識が社会に広がれば、競争に依存した価値観に代わり、共存と友愛に根ざした価値観が新たに形成される。
庭園を共有する仲間がいないと思うかもしれないが、実際には必ず世界のどこかに己が好きな人々が存在する。昔はこのようなつながりが持てないということは、非常に孤独で悲しい状況を意味していたが、現在では技術の進化により、地理的な制限から我々は自由になり、遠くにいる人たちとも簡単にコミュニケーションを取ることができるようになっている。我々は、人との関係という庭園を自由にデザインできてきているのである。

8.結論

現代社会では、他者との競争に基づいた「社会的価値」や「常識」が人々を縛り、自己と他社の価値を他者評価に委ねる状況が広がっている。しかし、こうした競争が人間に持続的な幸福や社会の成長をもたらすわけではない。本論文では、社会的闘争に依存することから脱却し、自己価値の追求を通じて新たな成長の道を模索する必要性を論じた。

社会的価値への盲目的な信仰から解放され、個人が自己の内なる価値を見出すことで、他者との比較ではなく、自己の成長と本質的な幸福が生まれる。さらに、こうした内面的な価値の追求が社会に還元されることで、単なる経済的利益を超えた創造的な文化と持続可能な社会が築かれる可能性がある。個人が「庭園」としての居場所を育むことで、他者と協調と独自の価値を実現する空間を両立できる。そこには、外部の評価に頼らない安定した基盤があり、この基盤が個人の充足感と社会全体の幸福に寄与する。自己価値の追求を中心とした社会的な枠組みが、持続的な幸福と連帯と豊かな文化をもたらす道筋を示している。


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