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晩秋の吉野山3(終章) 吉野神宮
今回(終章)は、「晩秋の吉野山3(終章)吉野神宮」をリポートします。
吉野神宮は、明治に入って後醍醐天皇をご祭神として創立された(今の社殿は昭和7年竣工)という。その場所は、吉野山メインルートの入口になります。
しかしながら、吉野山へ新しく車道が開通すると、また観光拠点の蔵王堂からだいぶの距離もあって、今は参拝者も観光客も、そう多くはないようです。
おかげ?で、この日、森厳静寂の中で参拝することができした。
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吉野神宮のある辺りを「丈六平」という。
なぜ「丈六」と呼ばれるかというと、昔ここに修験寺院があり一丈六尺の蔵王権現が祀られていたことによるとか。
また鎌倉時代には大塔宮護良親王(後醍醐天皇の第一皇子)を攻める鎌倉方の本陣がおかれた所でもあるらしい。
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「後醍醐天皇のお宮」
第96代 後醍醐天皇は31歳で即位した。1318年のことである。
その強烈な意志力と抜群の行動力は、元弘の乱、鎌倉幕府の滅亡、建武新政府の樹立と瓦解、そして室町幕府成立という史上まれな激動を生み出した。(『歴代天皇辞典』PHP文庫より抜粋要約。以下同じ)
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…後醍醐天皇の建武新政府は、天皇独裁による性急な改革や土地訴訟への対応の不備などが各方面の不満を呼び、また味方側であった足利尊氏の反乱もあって、二年半ほどで幕を閉じた。
後醍醐天皇方の楠正成(くすのきかさしげ)が湊川の戦いで敗北すると、天皇は延暦寺に逃れた。
その後、後醍醐天皇と足利尊氏の間で和睦が行われ、天皇は三種の神器を光明天皇に渡した。
が、後醍醐天皇は、渡した三種の神器は偽物だったと主張して、吉野の山中に南朝を開いた。南北朝の始まりである。
(『同』)
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吉野にあって還幸を願う後醍醐天皇は、しかし京都に帰れぬまま、病に倒れ、吉野金輪王子で崩御。
天皇は崩御を前に「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも魂魄は常に北(北方の宮闕)天を望みたい」と遺勅されたという。
(『同』)
※注
金輪王寺:後醍醐天皇は金峰山寺蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とした。寺号を改名し金輪王寺とした。(「晩秋の吉野山2」参照)
南山:吉野山
魂魄(こんぱく):魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気。
宮闕(きゅうけつ):宮殿。 宮城。
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享年五十二。
(『同』)
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後醍醐天皇の魂魄(こんぱく)、すなわち「強烈な意志力と抜群の行動力」の源泉は、いったいどこから来るエネルギーでありその実体はなんなんだろうか。
また、朝廷に反旗をひるがえした足利尊氏を動かしたものはなんだったのか。
このあたりのことは、たぶんゆかりの現場に立って思案してもわからないように思います。創作伝承が根付いてしまっているから。
やはりたくさんの本を読み、しっかり史実を勉強しなければ。
ちなみに現在のところ、私はやや尊氏派であります。
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これで、「晩秋の吉野山 全3章」はおしまいです。
2024.11.11(訪れた日2024.11.6)