麦秋の風景に見る小津安二郎と原節子
三輪山の麓に広がる麦畑。
この茶色はもうすぐ収穫のサイン。
この麦は、製粉されて三輪素麺かうどんの原材料になるのだと思う。
これだけの面積の麦畑は、当地方ではここ以外見れない。(推定)
さて、この麦畑は水田転換なのだろうか?
それとも大豆かなんぞの作物の裏作として植えられているのだろうか?
どっちにしろ、農家の次男の私は、眼前の麦秋に郷愁を覚えずにはいられない。
郷愁ついでに「麦秋」でもう一つ思い浮かぶのは、脚本・監督小津安二郎、主演原節子の、『麦秋』というタイトルの映画である。
今日、リアルに麦秋を見た後、昔のDVDを引っ張りだし、若き原節子を再び観たのだった。
麦秋シーンが映画の中で使われるのは、ラストだけだったように思う。いったいあれ(麦秋)は何の暗喩だったのか。
もう一つ上の喜びを期待するなら稲穂の実りでよいではないか。そうではなく、麦の実り。。。とは?
そもそも「麦秋」から受けるイメージは、乾いた透明な風に揺れる穂。重い軽いでいえば、稲穂は垂れて重く、麦の穂は軽い。その麦の穂の軽さは、じとじとした現実の人間関係、親子関係、恋愛関係ではなくて、いろいろ苦しみ悩みがあっても「ああ今日はいい一日だった」(映画の台詞)という人生観に通じるものがあるように思われる。実際はそう楽天的ではいられないはずなのに。
映画『麦秋』の撮影当時、実は小津監督と原節子の恋愛が噂されていたという。かの小津美学において、結婚に至らない原節子との関係は必然だったのか。そうであったような気もするが、健康の問題だったのかも知れない。(妄想)
麦畑の一角で苗代が作られていた。
麦の収穫後、同じ農地で稲を作るのだと思う。しかしそれにしては苗代の面積が小さいので、大半は大豆を植えるのであって、水田は少ないような気もする。
さらに麦畑の隣の田んぼでは、すでに田植えの準備が整っていた。
畦塗りもしっかり(機械で)行われ、あとは水を引き入れるだけ。
その水は、川から来る。
今、川に水が少ないのは、すでに堰のところで水路に取り込まれているためである。
おそらく水路から盆地の地下に、しっかり水は浸透しているのだ。
地上は乾いていても、土中には水が溜まり始めている。こうした目に見えない農の営みを想像してみると、がぜん地球が愛おしくなる。
水と土の耕作の繰り返しが、千年、二千年続いている。そんな遺伝子レベルの記憶が、脳内のどこかにある。
懐かしさを感じるのはそのせいだと思う。
刈らるゝ も今が一番麥の秋
2023.5.27