新井 卓将

卓球指導者、インストラクター/パラ卓球(肢体不自由者)日本代表アドバイザー【資格】公認卓球コーチ4/障がい者スポーツコーチ/卓球療法士/その他スポーツフード、メンタル系資格【記録】ギネス世界記録(1分180回)伊藤美誠選手と樹立【著書】『卓球サーブ完全バイブル』実業之日本社

新井 卓将

卓球指導者、インストラクター/パラ卓球(肢体不自由者)日本代表アドバイザー【資格】公認卓球コーチ4/障がい者スポーツコーチ/卓球療法士/その他スポーツフード、メンタル系資格【記録】ギネス世界記録(1分180回)伊藤美誠選手と樹立【著書】『卓球サーブ完全バイブル』実業之日本社

最近の記事

久々の投稿です。バタバタしていて落ち着いて書く余裕がないので、しばらくこちらには書けそうもありません。落ち着いたらじっくり書いていこうと思います。

    • アルコールをやめたわけ

      もともとビールが大好きで、毎晩2Lから飲んでいました。 飲みに行く事も、家で飲む事も大好きでした。 そんな、ビール大好き人間だった僕が、ビールを含むアルコール飲料を12年前に完全に断ちました。それから一滴も口に入れてません。 「あんなに飲むのが大好きだったのに、どうしてやめたの?」 「いつも飲んでたのに、どうやってやめれたの?」 お酒をやめた理由をよく聞かれます。 僕がお酒をやめた訳2008年当時、丸子橋卓球スタジオとして小学生チームを立ち上げました。子供達は目標に向か

      • 運命のギネス記録!?

        ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、 2011年に伊藤美誠選手と共にギネス世界記録を樹立しました。 当時、福原愛選手が2001年に樹立後10年間保持していた1分間高速卓球ラリー最多数175回に、伊藤美誠選手(当時11歳)が挑戦するというギネス特番で相手役として共に挑戦しました。 まず、2011年5月にチャレンジし、結果173回という事で記録更新ならずという残念な結果になりましたが、半年後の11月に再度挑戦する機会を頂き、180回(90往復)という新記録を樹立し世界記録

        • 自分にとって『指導者』とは-③

          昨年(2019年)から指導者を名乗らせて頂くようになった訳だが、自分が立派な指導者だとか、理想の指導者とは全く思ってない。 パラ卓球日本代表の監督として、いち指導者としての自覚というか、責任、覚悟が必要だと、そう思っただけで、まだまだ自分の経験や能力、人間力は未熟であるし、学び続ける必要がある。 もっとも、自分から『僕は卓球の指導者です』とはこの先まだまだ言えないし、『指導する』よりも『提案する』方がしっくりくる。 ただ、人やメディアから指導者と言われる事は多くなってき

          自分にとって『指導者』とは-②

          もともと、僕のなかの究極の指導者像は、小学生時代(丸善クラブ時代)からの恩師である『長尾先生』である。 また後日詳しく書くが、僕のキャリア(人生)においてもっとも大きな影響を与えて下さった先生である。 長尾先生が亡くなり、この道を志す決心をした僕は、先生のような指導者になりたいと思いながらも、長尾先生のようには絶対になれないと思っていた。 僕のなかで偉大すぎるという事もあるが、長尾先生は唯一無二の存在であった。 そういう思いもあり、長尾先生に育ててもらった僕は、僕らしい

          自分にとって『指導者』とは-②

          大掃除をしていたら、30年以上前の写真を発見。 凄い方々に担いでもらってます^^; でも、すごく良い写真だなと思いました。 #原点 #笑顔 #幼少期 #丸善クラブ #感動

          大掃除をしていたら、30年以上前の写真を発見。 凄い方々に担いでもらってます^^; でも、すごく良い写真だなと思いました。 #原点 #笑顔 #幼少期 #丸善クラブ #感動

          自分にとって『指導者』とは-①

          19歳からこの道を志してからずっと、50歳になったら『指導者』を名乗ろうと思っていた。 指導者って、すごい響きだなと。 おこがましいというか、全然足りないというか。 30年間は下積み修行だと自分のなかで決めていた。 『指導者』を僕の中の概念で考えた時に、知識、理論、経験を基に様々な個性、戦型、用具、技術に対しての指導が抜かりなく出来なくてはならないし、それだけの『指導力』が不可欠であると考えている。 自ら手本を示し、解りやすく演じられるスキルと、自らが習得過程を経験し、

          自分にとって『指導者』とは-①

          19歳で卓球を辞めてからのあらすじ

          この職業を志した19歳から現在までのあらすじをざっくりと 1998年4月、高卒で実業団(信号器材)に入社。 その夏に故障により卓球を辞める。 それから3ヶ月後の恩師の死をキッカケに卓球指導者の道を志し、会社を辞め、東京都三鷹市にある卓球スクール『ITS三鷹』に。無理を言って卓球教室の手伝いからやらせてもらい、3ヶ月後の1999年4月からアルバイトに。 1年後の2000年4月にバイトから契約社員に。 その年の7月に交通事故に遭い右手に重症を負い長期離脱(当時21歳) 手

          19歳で卓球を辞めてからのあらすじ

          まずは自己紹介を

          【氏名】新井卓将(あらいたくしょー) 【生年月日】1979年5月8日(40歳) 【家族構成】嫁、17歳長女、5歳次女の4人家族 【活動歴】19歳後半から活動を始めキャリア21年 現在の活動について↓ パラ卓球(肢体不自由者)日本代表 監督 2021年に延期になった東京パラに向けて準備中です ニッタクアドバイザー ラケットの監修、ラバーの開発等にも携わってます 丸子橋卓球スタジオ 代表 2003年4月にオープンしたレッスン専用卓球スタジオ ギネス世界記録ホルダ

          まずは自己紹介を

          やっと初投稿

          初めてnoteに投稿します。 8ヶ月前にアカウントを開設して、今更の初投稿。。 noteには、FacebookやTwitterには今となっては書き難くなってしまった本音や僕の活動理念なんかも書いていきたいと思う。 次回はプロフィールを投稿します。 新井 卓将

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