19歳で卓球を辞めてからのあらすじ
この職業を志した19歳から現在までのあらすじをざっくりと
1998年4月、高卒で実業団(信号器材)に入社。
その夏に故障により卓球を辞める。
それから3ヶ月後の恩師の死をキッカケに卓球指導者の道を志し、会社を辞め、東京都三鷹市にある卓球スクール『ITS三鷹』に。無理を言って卓球教室の手伝いからやらせてもらい、3ヶ月後の1999年4月からアルバイトに。
1年後の2000年4月にバイトから契約社員に。
その年の7月に交通事故に遭い右手に重症を負い長期離脱(当時21歳)
手術、リハビリを繰り返し1年後に復帰するも、事故の後遺症に悩まされ再手術等が続き2002年3月で退職。
2002年4月からフリーランスの卓球インストラクターとして活動開始。
右手の最後の手術をするも治らず、右手指に後遺障害が残る。
その年の2002年11月に結婚。当時22歳(若っ!)
2003年4月、丸子橋卓球スタジオをオープン。
2004年、変形性股関節症で歩けなくなり、廃業を決意。
そこから色々ありつつ、周囲のサポートもありギリギリ続ける。
ワークスタイルを見つめ直し、予てから目標としていた理想のマルチインストラクター像の実現を目指して、様々なプレースタイル、用具、技術を高いレベルで習得し、自然に体現できるよう自ら構築した理論に基づく技術習得に取り組む。
その取り組みの結果、様々なスタイルに対応可能となり、当時の正月特番『新春かくし芸大会』の卓球芸演目の技術指導、監修、出演や音楽番組にミュージシャンとのコラボセッション、タレント指導、講習会講師などスタジオのみならず外部に向けた活動の機会が増える。
2009年5月、YouTubeの動画投稿を開始。
様々なプレースタイルの技術動画やパフォーマンステクニックを公開。
動画が注目され様々なメディアから声がかかり、活動の幅が広がる。
ピンポンパフォーマーとしての活動、テレビやCM、雑誌やDVDの監修など、本業のインストラクターとしての活動と平行して様々な活動を展開。
2017年、パラ卓球(肢体不自由者)日本代表の合宿での指導の依頼を受け、活動の合間をぬって数回指導に。
2018年、パラ卓球日本代表のコーチとして合宿での指導、世界選手権スロベニア大会への帯同をする。
2019年、パラ卓球日本代表の車いす監督兼立位コーチを拝命し、専任スタッフとして活動。年間13大会、12ヶ国の海外遠征に帯同し、強化合宿や強化練習等、パラ卓球日本代表の強化を中心に活動。
2020年、パラ卓球日本代表の専任監督を拝命し、2021年に延期されたパラリンピックに向けて強化のための準備を進めている。
ざっくりとですがこんな感じです。
今後、部分部分の細かいところを詳しく書いていきます。