自分にとって『指導者』とは-②
もともと、僕のなかの究極の指導者像は、小学生時代(丸善クラブ時代)からの恩師である『長尾先生』である。
また後日詳しく書くが、僕のキャリア(人生)においてもっとも大きな影響を与えて下さった先生である。
長尾先生が亡くなり、この道を志す決心をした僕は、先生のような指導者になりたいと思いながらも、長尾先生のようには絶対になれないと思っていた。
僕のなかで偉大すぎるという事もあるが、長尾先生は唯一無二の存在であった。
そういう思いもあり、長尾先生に育ててもらった僕は、僕らしい指導者を目指そうと考えた。長尾先生やこれまでお世話になった恩師からの教えや経験を活かしながらも、全く新しいタイプの指導者像を描き、理想を追求した結果、前回書いたような指導者像に行き着いた。
前回の記事はこちら
https://note.com/tacshow/n/n72afc5a0df9f
僕はまず、なんでも出来る『マルチインストラクター』を目指す過程とその実現が、自分が目指す理想の指導者としての下積みになると考えた。
その下積み生活としての『マルチインストラクター』を実現する上で目標にしたのは、
・全ての戦型をまるで本職のように表現(プレー)出来るようになる事
・新たなテクニックや応用テクニックの開発と実用提案
・様々な戦型での技術連載などの監修をする事
・特に希少な戦型、用具についての専門的知識とスキルを持つ事
・最終的には戦型を超えて卓球そのものの専門家になる事
以上のような事を目標としていた。
そういった目標の実現に近づくキッカケになったのが、21歳の時に遭った交通事故であり、もがき苦しんだ手術とリハビリを繰り返す日々である。
また後日詳しく書くが、利き手の右手に重症を負って長期入院し、今まで見えなかったもの考えなかった事に気づき、復帰過程では開き直ってがむしゃらに取り組めた事で、新たな境地が拓けたような気がした。
10年前倒しで指導者に
50歳になったら『指導者』を名乗ろうと思いながらやってきたのだが、昨年、40歳で指導者と名乗らせてもらう事になった。これは僕のこだわりというか、特殊(極端)な考え方なので僕にしか当てはまらない事だが、決心と覚悟をもって指導者を名乗る事に決めた。
理由は、パラ卓球(肢体不自由者卓球)日本代表の監督を拝命し、専任スタッフとして活動する事になったからである。
つづく