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なんだ コレは!の火焔土器を訪ねて新潟県長岡へ【紀行文】
日本の原始美術を代表する火焔土器
火焔土器は新潟県の長岡市関原にある馬高遺跡から発掘されたものである。
昭和の初期に近藤篤三郎氏が発掘したこの土器を「火焔土器」と呼び、これが標識となっており、これに類するものを火焔型土器という。
時を経て、それが芸術家の岡本太郎の目に触れたときに「なんだ、コレは!」と言う名言が生まれた。以来、火焔型土器は縄文時代を代表する、そして日本の原始美術を代表する土器となったのである。
現在、この火焔土器は、新潟県長岡市の馬高縄文館にある。
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岡本太郎の心をとらえて離さなかったこの縄文の芸術は、縄文ブームに乗り、あっという間に日本で最も有名な土器の一つとなった。
この火焔型土器は、信濃川流域で主に出土しているもので、その使用用途は、詳しくはわかっていないという。
通常の煮炊きに使っている形跡があるにもかかわらず、手間ひまかけた造形を凝らしているところに不思議がある。祭祀専用ではなく、日常の用としても火焔型土器は使用されていたらしいのだ。
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火焔式土器に描かれていたもの、それは縄文の風景
そこに機能性以外のどのような機能・用途があったのだろうか。
呪術的な祈りを込めたのであろうか、それとも平和であったといわれる縄文時代において、余暇を持て余した人々の芸術の心が、なせるものだったのだろうか。
縄文土器に描かれる絵は、一体何を指し示しているのか。これに迫る学問が縄文図像学であり、この先進的な研究をしているのが、私が何度か挙げている井戸尻考古館である。
私が最近読んだ「神殺し・縄文」と言う本においては、縄文土器に描かれる渦巻き模様は雲であり、そこから降り注ぐ線状痕は雨であり、そして縦に強く入る線こそが、雷である。そしてその雷の化身として、蛇やカエルが描かれていると書かれていた。
私はこの説に、雷撃を受けたような衝撃を感じた。
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縄文土器には、その昔人々が見た雷雨と嵐の景色が刻まれていた。つまり土器というキャンバスに、縄文人が見た自然の姿を描いたものなのだ。
土器に描かれる激しい渦と縄文は、天に渦巻く荒々しい雨雲、降り注ぐ雨、そして激しい雷。これが縄文土器に描かれているものの正体であると今は考えている。
雲、雨、雷は、地上に降り立ち、いつしか蛇やカエルなどが、その化身と見做された。さらに天空の太陽や月も、抽象化され記号となって記述されるようになったのではないだろうか。
この馬高縄文館で火焔型土器を数々見たが、どれも私は縄文人が見た縄文の風景であるように思えた。
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縄文人の生活と豊かさ
やがてそこに多産の象徴としての猪、蛙の霊力を身に着けた半獣半人像などが登場し、まるで物語が描かれるようになっていく。
ここに展示されている土器の多くが、土器の周縁に四つの突起を持つ。
これはめぐる四季を表しているのではないかと思う。
当時四季と言う概念があったかどうかはわからないが、その概念が芽生えていたとしてもおかしくはないだろう。
実際、多くの土器には四つの突起や隆起があり、微妙に景色が異なる。
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縄文時代には、一部農耕栽培が始まっていたといわれる。栃の実や栗などの堅果類を管理または栽培していた。
一つの傍証として、縄文人には、同時代の世界の人々に比べ、圧倒的に虫歯が多いそうだ。これは植物性のタンパク質を含んだ炭水化物を含んだものを食していたがゆえと言われている。
狩猟民族であれば、通常は虫歯が少ないそうだ。
こうした安定した生活、食料事情があった中で、やがて余暇を持て余した人々が芸術性の高い、つまり抽象性の高い文様や絵を描いたのは不思議ではないであろう。
その後、隆盛を極めた火焔型土器が、やがて紋様の少ない土器に落ち着いて行ったのは、気候の変化により、食料事情が悪化し、人々に余裕がなくなっていったせいだと考える。
縄文時代の晩期、日本列島全体で寒冷化が進み、食料事情が大きく変化したことが分かっている。
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つまり単純に人々の生活の豊かさが、あの豊穣なる情熱の縄文土器、火焔型土器を産んだのではないか。縄文人の芸術であったのだ。
新潟県立歴史博物館で縄文の生活を学ぶ
その頃の縄文人の生活はどのようであったか。
この縄文人の暮らしを見ることができる施設が、馬高縄文館の近くにある。それが新潟県立歴史博物館だ。
新潟県立歴史博物館は、新潟県内の歴史をたどりながら、貴重な文化的遺産を見ることができる施設で、その展示の完成度の高さに驚いた。
特に縄文ゾーンには力が入っており、秘境的な空間へのいざないを演出する入り口が圧倒的だった。
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縄文人の暮らしのゾーンでは、緻密に再現された縄文人の四季の暮らしや狩猟風景、日常生活などを見ることができる。
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一点だけ気になった部分がある。それは縄文人たちが刺青をしていないことだ。
多くの土偶にあっては、縄文人の顔や体に刺青をしていたような形跡がある。縄文人の祭祀を見る限り、動物などの他の生き物の力を取り入れようとする働き、呪術性があると思われる。これは類感呪術に通じるものであると思う。
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土器に記されるあの執拗なまでのうねりは、自然界に存在する雲や嵐、竜巻などの渦巻き状の力のうねり、これを表したものであると思う。
その力を取り入れようと縄文人の多くは刺青をしていたのではないか。
現代まで伝わる着るものや織物のデザインにもうずまきが多い。渦巻きの力を取り入れようとする遺伝子は、現代の私たちにも伝わっていると思う。
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ビジュアル的にも美しい縄文精神世界の解説だ
火焔土器を見て広がる縄文世界のイメージ
これまで信州・山梨を中心とする中部高地の縄文土器を見てきたが、この地域で出土する水煙型土器に対比される火焔型土器。信濃川流域に突如として登場したこの激しいうねりを持つ火の情熱を閉じ込めた土器。
水煙型土器とは、渦巻き模様の共通性は感じられるが、明確にアイデンティティーの違いを感じる。
龍蛇信仰としては通底しているが、その表現のメンタリティというか、精神的個性の違いを明確に感じる。
火焔型土器と言うのは、誰となく現代の人が名付けた「イメージ」であるが、焔(ほむら)の力を表現したであろうと直感し、異論はあまりないであろう。
ただ縄文土器に関して頻出の「蛇」について今回感じたことがある。
水煙型、火焔型共に、私は天に渦まく雨雲のイメージが反映されていると思うのであるが、そこから連想されて土器に表現された蛇は、恐れの対象というよりも、農作物を荒らす害獣を駆除する存在であり、水辺に出没する守り神的な存在だったのではないか。
もちろん、通説の脱皮をする様が、日月の消長、作物の成長と同一視されたり、信仰的に採用されたりと言うのもあったと思う。しかし、蛇はもっと身近な親しみすらある生き物だったのではないかと、思った。
新潟の火焔型土器を見て改めて縄文世界の広がりと面白さを感じた。
この後はやはり東北地方そして北海道の縄文土器を直接見てみなければならないと思う。
やはり次は三内丸山遺跡に行きたくなってきたのである。
この日の旅の続きはこちら。
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