浅間の大神を祀る古代の祭祀 村山浅間神社にて【随筆】
修験道の痕跡が残る村山浅間神社へ
山宮浅間神社から車で東に10分ほどのところに、村山浅間神社がある。最近整備された国道469号の新道を使うとあっという間だ。
こちらも「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」として富士山の関連資産が世界遺産登録された際に、駐車場を始め現地案内看板等が整備されたらしく、少し前の姿を知っているときれいになったなあ、有名になったなあと思う。
この村山浅間神社も溶岩流の末端に立っている神社だ。そのため一帯は高くなり、富士市やその向こうに広がる駿河湾が一望できる場所にある。
現在、大鳥居の正面階段付近を工事中らしく、右手の階段から境内に入る。
発掘調査報告書によれば、村山浅間神社遺跡からは9世紀後半からの出土遺物が認められる。しかし富士山の噴火を鎮める鎮魂の施設というよりも、修験道の中継地点であった可能性が高い。
平安時代の神仏習合の形が今でも残っている稀有な事例らしく、富士山を大日如来=コノハナサクヤヒメとして信仰していたようだ。
上の写真正面に見えるのは、村山浅間神社の拝殿であるが、右手の階段から見える建物は、大日堂という寺の建物。明治期の神仏分離令の中でも、壊されず、今に残っている。
階段を上がり正面に見える大日堂の右手に「水垢離場」がある。
水垢離場の上の段には、護摩壇がある。
訪れたのが正月だったためか、護摩を焚いた跡が残っていた。元旦祭が開かれているようなので、この時に使用されたのだろうか。
毎年富士山の山開きの際には、京都聖護院の修験者が訪れ、地元の修行者と一緒に行事を行っている。
先日、伊豆峯修験のフォーラムに参加したが、こちらは神仏分離令の最中修験道が「禁止」され、その後ほぼ途絶えてしまった。
一方でこうして村山修験は、形は変われど今に続く行事があるのは奇跡的なことだ。ネット上の記事を見る限りでは、地元でもこうした行事を存続する声が多いようである。
今の人に受け入れられる形で、こうした伝統が受け継がれていくことを切に祈っている。
護摩壇の更に上段に向かって、小道があった。興味をそそられ、小道の階段を登ってみると、草木に埋もれたところにも石仏があった。
冨士山興法寺大日堂と村山浅間神社が同一敷地内にある
冨士山興法寺大日堂は、見た目では、比較的新しい建造物のように見えた。調べてみると平成26年に保存修理工事を行っている。
名前の通り、大日如来を祀る堂であり、1259年(正嘉3年)銘の入った大日如来坐像が伝わっている。少なくともこれ以前からこの大日堂は存在していたようだ。村山修験の中心的施設として長らく使われてきたが、神仏分離令後は、興法寺が村山浅間神社と大日堂に分離された。
一方下の写真が村山浅間神社の拝殿・幣殿。奥にある本殿は浅間づくりとなっている。
神仏分離によって境内社富士浅間七社を相殿し「浅間神社」が建てられた。主祭神は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)で、他に父親の大山祗命、息子の彦火々出見命、夫の瓊々杵命、そして大日霊貴(天照大神)、伊弉諾尊、伊弉冉尊が祭られている。
このあたりのラインナップをみると、比較的新しく祭神が統合整理されているように思える。
村山修験の実質的な開祖 末代上人を祀る高根総鎮守
この高根総鎮守については、以前の記事でも触れた「末代上人」を祀る氏神社である。
冨士山興法寺は冨士根本宮村山浅間神社と大日堂に分けられ、廃仏毀釈の混乱の中でも大日堂は幸いにも破壊を免れ、今も冨士山興法寺大日堂として残っている。
一方同じく興法寺内にあった大棟梁権現社は、「仏が神の姿となって現れる」という意味を持つ権現という名がつくため廃止されたが、村山の人々は裏山を登った所に高根総鎮守社を創り、末代上人を村山の氏神として祀った。信仰を守り続けた地元の人々の祈りの強さと思いがうかがい知れる。
この村山浅間神社は、富士山そのものを祀る信仰よりも、山岳修験としての聖地の性格が強いように思える。修験者は、そのネットワークから高度な天文や薬学・医学の知識などがあったようで、修行の時以外は、地元に交わり医者や学者の代わりとなっていたという話がある。
そうした地元密着型の修験が根付いていたこともあり、ここ村山では修験道としての富士山信仰が色濃く残されたのだと思う。
村山浅間神社にて、浅間の大神とのつながりを感じようとしたが、浅間の大神としての畏れは薄まり、現世利益的な修験道が地元に色濃く残った場所という印象を受けた。
村山の地の歴史を概括した資料があったので、リンクを貼っておく。
富士山に帰ったかぐや姫の伝説
富士山の神として最初は、火と煙の象徴であろう「浅間の大神」がいた。そしていつからか、そこにコノハナサクヤヒメが上書きされ、今では、浅間神社=コノハナサクヤヒメという印象になっている。
ところが、調べていくうちに、もう一つ有名な神仏(!?)が登場してきた。それは「かぐや姫」である。
かぐや姫の物語、すなわち竹取物語のあらすじは、ほとんどの日本人が知っているだろうが、この富士山南麓に伝わる「かぐや姫物語」で、大きく異なる点がある。それはかぐや姫の帰る場所が「富士山」なのだ。
富士市の比奈地区(かつては姫名)には赫夜姫という地名も存在する。
こうした話が伝わる背景には、やはり火山としての富士山を畏れ、神格化し、そして物語として伝えた人々が存在していたはずである。その人々の中で、かぐや姫=浅間の大神=浅間菩薩となり、また大日如来=富士山の図式と混同されてきた。
そして富士山=かぐや姫の図式ができあがったころに、どういう意図からか、かぐや姫にコノハナサクヤヒメを代入する働きがあったようである。
このあたりの歴史を追った研究も数多くあるようなので、興味深い。
日本一の富士山、気高く美しいその山の周辺には、複雑な信仰と文化がまじりあって今に続いている。
浅間さんは、私の住む静岡では、数多く存在する神社だが、なぜそこにあるのか、共にまつられている神は、いったい誰なのか、そうしたことに興味を持ちながら、参拝するとまた楽しみが増える。
今回、たどり着いた富士山とかぐや姫伝説について、近々富士市の「富士山かぐや姫ミュージアム」を再訪するつもりである。
ここでまた新たな謎と発見に出会えるのであろう。楽しみだ。