「能動的」な走り、「受動的」な走り
「走る」こと。
それは単純かつシンプルな動作である。
歩くよりもスピードが出ているが、人によってスピード感や走る目的も違う。
小学生の50m走も走るの一環であるし、100㎞を超えるようなウルトラマラソンのような競技だって走るの一環である。
多くの人は「走る」というと長距離走や持久走を思い浮かべる人が多いと思う。それは大体体育の授業で走らされ、嫌いになったという人が多い。つまり「受動的」に走らされた結果により走ることが嫌いになってしまったといえる。
一方社会人の方になって走り始めるランナーもいる。多くの人の走り始めるきっかけとしてはおそらくダイエットであったり、運動不足の解消であると思う。しかし、当初の目標であったダイエットや運動不足解消を達成してもランニングを習慣に続ける人が多い。もちろんリバウンドを防ぐといった目的で続けている人がいると思うが、おそらく自分で「能動的」に走っているから楽しい・好きという感情が「走る」ことに芽生えているのであると思う。
学生時代の勉強であっても同様で、嫌いな教科の課題は「受動的」に嫌々することも多い。しかし、得意や好きな教科の課題は得意げに「能動的」に自分から進んでしたものである。逆に「能動的」に自分から進んで勉強したから得意になったり、好きになったともいえる。
「走る」ことを学生時代体育の長距離走で嫌いになってしまった方でも、社会人になってダイエットや運動不足解消という過程の中で「走る」ことが好きになっていった人が多い。つまり「受動的」に走るのではなく、「能動的」に走っているから好きになる人が多いといえる。
学生時代長距離走が苦手だった人でもペースは関係なしに始めに15分くらい走ってみてはいかがだろうか。走り始めはみんな遅いものであり、最初から速い人はいない。「走る」ことは長く走り続けたからこそ結果的に速くなっていくものである。
走り始めの1歩目は誰でも恐いものである。
しかし、走り始めの1歩目を踏み出さなければ2歩目、3歩目がない。
2歩目に行くための1歩目を踏み出してみると新たな発見があるかもしれない。
だからこそ1歩目を踏み出すことは大きな意義がある。
その1歩目を「能動的」に走ることで踏み出してはいかがだろうか。
きっと何か違った感じの「走る」感覚を得られると思う。