ライターの師から放たれた厳しい言葉の真意について考える
「ただの自慰行為」
「裸を見せたいだけ、露出狂」
「全部矢印が自分に向いている」
「読んだ人が全く返信や感想を書く気が起きない」
「承認欲求しかない」
僕がライターの師と仰ぐ方が、最近僕の書いた文章について述べられた言葉だ。
師は「少し厳しい言い方になるけれど」と前置きした後、冒頭の言葉を並べた。
その言葉を、僕はほんの少しの悔しさと、不思議と清々しい気持ちに満たされながら受け取った。なぜならば、そこに違和感はなく、むしろその通りのことだと思ったからだ。僕は、僕の書きたいことを書きたい時に書いている。
「全ての文章にはゴールがある」
この言葉は、師から学んだ文章を書く大前提に当たる格言。今の僕の文章には、それが見えないのだと言う。
文章を書くうえでのゴールは、たいてい読者の意識変容、行動変容にあるとされる。では、僕の文章のゴールはどこにあるのか?
師は「あなたが文章を書く目的が、最初に言った通りのことであれば(自慰行為)、それはそれで構わないと思う。でも、本当にそれだけ?」と問う。
それについて考えてみる。
僕が文章を書く時は、内省的な意味を持つことが多い。でも、僕が書きたいことは、自分の頭の中を整理するだけの行為なのだろうか?
もしそうなのだとしたら、なぜ世界中の人が閲覧できる場所に、わざわざ自分の心中を晒しているのか?
自分との対話だけであれば、誰にも見られることのない「日記」を、人知れず書き綴るだけでいいはずではないか。それなのに、なぜ。
やはり、読んでほしいのだと思う。
見せたいのだと思う。
自分を。
そのことを正直に師に伝えた。
「だとすると、少しだけやり方というか、方法が間違っているかもね」
━━やり方、ですか?
「だってあなたは、自分の文章を誰かに読んで欲しいんでしょう? ということは、反応が欲しいわけだよね? それなのに、あなたの文章は、『開いて』いないと思うよ」
━━開く?
「自分の中だけで、閉じてしまっていると思う。その言葉は、そこでとどまってしまうし、誰にも何も伝わらないよ。自分のことを書く、それはみんな一緒。でもその書き方が、読んでくださる方に対して、向いているかどうかを考えてみて」
急に恥ずかしくなった。
冒頭に挙げた師の厳しい言葉が、鋭い痛みを伴って胸の辺りで暴れ出した。
自分のために書いている。
そんなふうに気取ってみたところで、僕は自分の書いた文章を、誰かに読んでほしいのだ。
「僕はここにいます」
その叫びこそが、僕が文章を書く理由。
それなのに、僕はボールを自分に向かってのみ投げ続けていた。その声は当然誰にも届かずに、僕の周りでのみ虚しく響いた。遠くに向かってボールを投げようと思えば思うほど、そのボールはまっすぐに自分に跳ね返ってきた。そして、僕の足元に音もなく転がった。
誰にも何も響かない文章になど、果たして存在価値などあるだろうか。
僕の書いた文章は無価値だ。いや、無価値であればまだマシかも知れない。数少ないにせよ、僕の拙筆を読んでくれた読者がいる。僕の書いたものは、その読者の貴重な時間を無駄にした時間泥棒だ。読者が「つまらん」とページを閉じ、時間だけを盗んでしまったのであれば、まだ罪は軽い。
もし読者が、僕の文章を読んだことで気分を害し、その後もイライラを募らせてしまったのだとしたら。
「ごめんなさい、僕にはそんなつもりは毛頭ありませんでした」
そんな謝罪は、何の意味も持たない。
僕は、ここまで書いて、自分の文章の幼稚さをまざまざと感じることができた。それは、内容についてではない。もちろん、ゴール設定が全くできていなかったことも原因のひとつではあるが、少し違う。
文章に、自分に、読者に向き合う姿勢が、幼すぎたのだ。
僕は普段、会社勤めのサラリーマンだ。
比較的大きな会社で、多くの部署が存在し、多くの社員がひとつの建屋内で働いている。
会社が大きければ大きいほど、社員一人一人の個性は組織に埋もれてゆく。僕はそんな、大きな企業の中の、ちっぽけで誰からも知られていない一社員である事実に耐えきれず、いつからか斜に構えた態度を社内で取る様になった。
たまたま同じ会社で働いているだけで「お前らとは違うぞ」と無言のアピールを始めたのだ。話しかけにくいムードどころか、話しかけんなオーラすら発していたと思う。
今にして思えば、そんなことでしか自分の存在をアピールできない自分を、極力認めたくないひがみにも似た歪んだ感情によるものだったと思う。
実際、そんな嫌な奴(僕)に、話しかけてくるもの好きな人はいなくなった。僕は会社において、仕事の話以外、全くしなくなった。本当は、自分の話をたくさん喋って、誰かの話をたくさん聞きたかったのに。
そう思えば思うほど、僕は自分を間違った方法でアピールをし続け、そのアピールは当然として、誰からも好意的に受け取られることはなかった。
それと同じことを、僕は「書く」ことでもしていたのだ。
自分が最も正直になれると信じていた「書く」ことについても、僕は去勢を張り続けていた。それは読者を、そして自分自身を、そして何より文章に向き合うことに対して裏切り続けていたことに他ならない。
師は「あなたは、もう自分らしい文章を書けている」と言葉を掛けてくださった。
これ以上、文章に自分色を出すことは、前述の間違った方法に繋がってしまう。
文章を書くことは、孤独な好意だと思う。
ただし、文章を書くことで、書き手の孤独が救われるのか、孤独が増すのかは、その文章の開き方で異なるのではないか。同時にそれは、読み手にも同じように伝播するはずだ。
僕は、間違って孤独を深める書き方をしていた。
僕に今、必要なことは、素直になることだ。
正直になることだ。
誰か1人でいい。いや、僕の書いた文章を読んでくれる誰か1人だけのために、誠実に、書く。頭の中ではっきりと、届けたい人の顔を思い浮かべて、書く。そしてそのボール(文章)を投げるのではなく、手渡しで届ける。そういう姿勢から、やり直す。
僕は「書く」ことが好きだ。
それを、裏切ってどうする。
いつも、大きな過ちを犯しそうになる時、決まって師は救済の助言を投げかけてくれる。
大丈夫。
「まだ、全然間に合う」
師の書いたZINEの表紙の言葉が、今回も僕を救ってくれた。
深く感謝する。
話をしたい、聞きたいのであれば、まず笑顔から始めてみようか。
文字をタイピングする時も。
会社でも。