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自分不在になってません?
多数派と少数派という二つの世界観をウロチョロした話。
多数派に迎合することが減ってきた今の私だけれど、恐怖や不安に駆られてそっちに煽られる古い癖は自覚しておこうと思う。
本来の自分に気付くと、世間の尺度があまり自分を幸せにしてくれなさそうに思えてくることもある。
思い起こせば私の人生はいつも少数派だったから、生きにくいことが多くて、面倒臭さから多数派にいる気配を演出したこともあった。
でも多数派って本当に”多数”なのかな?
ひょっして私のように息を殺してる変人がいるんじゃないかな。
自分が多数派に行くとき、確固たる志なんかなくて、ただ周りに合わせるために過ぎなかった。
こんな質問をされると答えに詰まっていた。
その行動の理由は何?
その決断の決め手は何?
その答えは自分で考えた?
それは本当に自分の意志?
こんなことを聞かれたら、なんて世間知らずだと一人悶々をしていた。
キネシオロジーを学べば、「分からない」では済まされない。
こんな表現をするとまるでおっかない学問みたいだけれど、要は限界を作らないということだ。
何かと制限をかけてしまうと、潜在意識はごまかしたまんまだから、口癖から変えていく。
私が今まで見てきた叱られパターンは、人の目を気にしなさい!とかだ。
キネシオロジーではその逆で、様子見ではいられない。
あ、また誤魔化したね~と言われてしまう。
それぐらい自分の感覚を鈍らせて、自分から自分を剥がした迷子状態にいるんだ。
ゆとりですから、なんて言い訳も所詮言い訳だ。
学びを通して自分が迷子だったと気づけて本当にありがたい。
セラピストの立場になってからも、セッションを通して心が見つかる経験ができるのは嬉しいものだ。
結局のところ、多数派は本心を隠して生きる”様子見”の集合なんじゃないかな。
様子見だからストレスが溜まって、少数派が羨ましく思うこともあろう。
本当は誰もが持っている頑固一徹の心根を発揮したいはず。
息が詰まるような群れの中に頑張って居続けなくていいやーとふと閃いたのだった。