2024年3月 観た映画感想文
タイトルの通り、2024年3月に観た映画の感想文です。
対象は映画館で観た新作のみ。
ストリーミングで観た分や再上映で観た過去作品などは末尾にタイトルだけ備忘録として書いておく感じでいきます。
前月の分はこちら↓
DOGMAN
新たなダーク・ヒーロー誕生!との触れ込みだったけど作品自体はまったくヒーロー映画感がなくてめちゃくちゃ重かった。
主人公の悲惨な境遇とそこから彼を救い出した犬たちの無償の愛の美しさをたっぷりと味わうことになるわけだけど、個人的にはそれがどこか白々しい感じが見受けられたように思う。
主人公は犬たちのことを掛け替えのない相棒であるかのように語るが、作中で描写される彼と犬たちの関係性は対等な相棒と表現するよりも絶対的な主人と忠実な従者のように見える。
確かに「忠誠心」とするよりはもっと深い関係性にも見えるけど、じゃあ「愛」と表現できるか?というとそうでもない。
悪く言えば中途半端だなって感じ。
主人公と犬たちは双方向的な関係性ですよ、という部分がもっと丁寧に描かれていればな〜と個人的には思う。
あんまりやりすぎるとハートフルに寄りすぎて描きたいモノからズレてしまいそれはそれで中途半端な仕上がりになりそうってことでカットしたのかな?
あと犬が命を落としたりすることはおろか傷つくことすら(直接的には)一切描写されず、重苦しくてバイオレンスな作風のくせにそれは少々無理があるのでは?という気がした。
他にも聞き手として主人公の身の上話や事の顛末を聴取するヒロインがちょっと高級な舞台装置でしかなかったところとか、粗探しをするとキリがない。
ただタイトル回収のシーンだけはめちゃくちゃかっこよかった。
ARGYLLE
ノリが軽くアクションシーンの画面が派手で観ているだけでも楽しめる、さすが『キングスマン』を作ったチームなだけあるな~といった趣。
とにかく観客を「自分たちの側」に引っ張る力が強くて、作中でどんなに無茶苦茶なこと言い出しても「まあそういうもんか……」と流してしまう。
ていうか細かいこと気にしてたら追いつかなくなるからなるべく考えないようにしてたのが実情ではある。
けどそれでもアイススケートのシーンのあたりは流石に「いやそうはならないでしょ」って感情が止まらなくて良かった。
次から次へと予想もつかない方向へ転がり続けるストーリーにも翻弄されるし、終わりに向かえば向かうほど悪ノリが加速していくし、面白けりゃ何やってもいいと思ってる人たちが実際に面白さを免罪符に全てめちゃくちゃにやってる感じがした。
最後の最後でもう一発ブチ込んでくる徹底ぶりには脱帽。
ところどころ何か雑だな~と感じるシーンがあったりするんだけど、一方で伏線の張り方はやけに丁寧だったりするし、取捨選択が巧妙なんだかムラっ気があるだけなんだかと不思議な感覚。
良い感じの「しょうもなさ」が目いっぱい詰まっててお手本のようなポップコーンムービーだった。
続編作る気満々っぽいから今後の展開にも期待したいところ。
DUNE 砂の惑星PART2
PART1と比べると映像の美麗さのレベルが格段に上がっていて圧巻の一言に尽きる。
さながらドデカいスクリーンとドデカい音響が整った映画館という食材を目いっぱいに味わうため生まれた高級フルコース料理みたい。
一方で物語の面では少し落ち着いてるのかな〜と感じた。
全体的に「大きく飛ぶ前の助走」といった雰囲気が漂っていて「長編モノにはこういうパートが付きものだよね~」と理解はできるものの、どうしても物足りなさを感じた。
とはいえ映像が凄すぎるから収支は圧倒的にプラス。
これはドゥニ・ヴィルヌーブの作るSF作品すべてに共通することだけど、描写のみで情報を読み取らせるシーンが非常に多く、常に気を張ってないとストーリーも何もかも把握できないまま置いていかれそうだったから観終わった後は結構疲れた。
しかもDUNEは群像劇だからなおのこと大変。
原作小説からして超重量級SFなのも相まってカロリー爆弾なんだけど、だがしかしそれが心地いい、超重量級SF大好き。
広大な砂漠が広がる惑星が舞台とあって背景の色味が均一になりがちで画面的にはどうしても地味になってしまうように思われるけど、光と影をパキッと分けたり、キツめのコントラストで色の情報を上乗せしたりと創意工夫でどうにかしてのっぺりとした画面にならないよう奮闘している様子が色んな個所に見受けられる。
これがまた大変微笑ましく感じられると同時に、ドゥニ・ヴィルヌーブという男の途轍もないアイデアマンっぷりはいくら賞賛してもし尽せない。
恐らくだけど、モノクロ作品で使われるような技術を大量に盛り込んだのでは?と思う。
PART1の時点で同様の取り組みは既に始めていただろうし、その時点で既にある程度の完成を見せていたと思っていたけど、PART2になって更に磨きがかかるとは思いもよらず、こうなってくると今からPART3が楽しみで仕方ない。
しかもPART3はそれほど待たされることなく観られるみたいで本当に嬉しい。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章
かなり駆け足で物語が進んでいたように感じたけど、原作未読だから元々これくらいのテンポ感なのか、それとも全12巻の物語を映画2本に詰め込むためにかなり無理をしているのかは判別つかなかった。
ただ逆にその「ちょっと無理してるのかな?」くらいのハイテンポが、物語自体の持つ奇々怪々さや異様なテンションの高さと相まって、独特で混沌とした唯一無二の雰囲気を形成していたように思う。
元より前章と後章に分かれているのに前章自体も2部構成みたいな作劇になってたあたり、実際結構無理してそうではある。
けど、むしろその「無理してる感じ」を逆手に取ってしまえ!と潔く割り切った作りになっているところも大変素敵。
他にも要所要所で音量が容赦なくデカくなるところも個人的にはかなりポイント高い。
皆さんに観せたいシーンはここです!と自分からアピールすることは重要なので……。
どこか抜けた感じのコミカルなキャラデザインと対立するようにメカデザインがガッチガチな仕上がりになってるところが異質でアンバランスに感じられるけど、それがまた「不安定さ」みたいなものを引き立てていてかなり良い感じ。
凡庸な作品だったら思いっきりツッコミを入れるような要素が登場しても一切ツッコミを入れずそのまま受け入れるか、ツッコミを入れたとしてもアッサリと触れてあとは流すだけってシーンがいくつもあって、取捨選択の仕方が本当に上手いなと思った。
この辺は浅尾いにおのセンスとしか表現できない箇所でもある。
前章で一つの物語の結末とその裏に隠れていたもう一つの物語が明かされ、新たな物語の開始と同時に世界の行く末がより一層不透明になってしまったけど、これどうなっちゃうの?!と思った絶妙なタイミングで「つづく」の3文字を眼前に突き付けられてしまうため今から後章が待ちきれない。
あとエンディング曲これ絶対凛として時雨だろって思いながらクレジット眺めてたら案の定TKでニヤけた。
COUNT ME IN 魂のリズム
著名な世界的ドラマーたちへのインタビューを通じて「ドラマーという生き方」ひいては「ドラマーという生き様」に迫るドキュメンタリー映画。
往年のレジェンドプレイヤーたちが他のレジェンドの名前を挙げて「アイツのドラムが如何にヤバかったか」を嬉々として語る姿はまるで純朴な子どものようで、彼ら彼女らも根っこの部分にあるのはロックキッズの精神なんだな~と思った。
クライマックスにちょっとした(と表現するにはあまりに豪華すぎる)ドラムだけのセッションが挿入されるんだけど、それがまた良い。
リズムだけを用いた対話は言葉を使ったそれよりもずっと単純で、真っすぐで、飾り気がなく、だからこそ当事者の間でしか完全には捉えられなくて、何物にも代えがたい強固な繋がりとなる。
RHCPのチャド・スミス、QUEENのロジャー・テイラーあたりを目当てに観に行ったけど、一番気になったのはドラムセットのレンタル業?を営んでるロス・ガーフィールドという一人のスペシャリスト。
彼の経営する倉庫の中には文字通り数えきれないほどのドラムセットが並んでいて壮観の一言。
ガーフィールドは自身が所有する大量のタム、バスドラ、シンバルなどそれぞれの特徴を事細かに把握していて、無数にあるそれらの中から顧客の要望に沿ったモノを的確に選りすぐり、音色の微調整も一手に引き受けるというとんでもないオヤジでビビった。
あくまで主役はドラマーたちというのもあって映る時間はそれほど多くはないけど、そのわずかな時間にも関わらず、こと「ドラムという楽器」に焦点を当てれば多分世界で一番詳しいんじゃないかと思うほどの造詣の深さを感じさせられた。
ていうか正直あの人に密着した単品のドキュメンタリーを作っても面白いのでは?と思った
オッペンハイマー
この映画が日本という国で上映されることの意味とか意義ってのは計り知れないものがあるなと思う。
パッチワークのように繋ぎ合わされた3つの時系列の中をあっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返しながら同時並行で進むから脳みそがこんがらがってしまわないように整理するだけでも一苦労。
あくまでも「J・ロバート・オッペンハイマーという人」に焦点を合わせた作品だから反戦・反核的なメッセージ性はそれほど前面に出てる感じではなかった。
一方で、核爆弾という怪物をこの世に生み出してしまったことに対するオッペンハイマーの葛藤については丁寧に描かれていて、そのことから読み取れることはたくさんあったと思う。
オッペンハイマーはロスアラモスという土地のことを核開発に携わるよりもずっと昔から大変気に入っていたという話は、ロスアラモスで核実験をやろうと決めたのが他ならないオッペンハイマー自身だったというところも含め、何とも皮肉めいたエピソードではある。
焦点はあくまでオッペンハイマーとはいえ、第二次世界大戦という激流の中でアメリカという国が核爆弾を作るに至った経緯とその投下までの一部始終、終戦、冷戦下での核開発競争と核軍縮の議論、東側諸国の台頭を契機とした反共運動といった時勢の流れは必然的に描かれることになる。
それらは作中でオッペンハイマーを取り巻く周囲の環境の変化として語られるわけだけど、少し世界史を齧ってるとより一層「どういうことが起きていたのか」が詳細にわかるんだろうな〜と思いながら観てた。
理系に世界史は厳しいものである。
要所要所で特段ホラーっぽい演出ってわけでもないのに背筋がスッと冷えるような、極度に無機質で世界から色が抜け落ちたかのようなシーンがいくつもあって、そういったシーンが来るたびに脳が痺れるような感覚に襲われた。
特に印象深かったのは作中で初めて「ロスアラモス」という地名が出てくる瞬間と、何よりマンハッタン計画のフィナーレ、トリニティ実験で使われた試作型の核爆弾を舐めるように映すシーン。
爆発までのカウントダウンが鳴り響くなか、ただじっとその時を待っているかのように佇む巨大な殺戮兵器の子どもは、有機的な要素を欠片も持ち合わせていない。
スクリーンに映し出されるのは「ありとあらゆる生物に死をもたらす」という「機能性」でしかなく、それが堪らなく恐ろしく感じられる。
ただのデカい金属の塊が堪らなく怖い、というのはシーンの概要だけ切り取れば何だか奇妙に感じられる。
やってることとしては本当に離れ業としか言いようがなく、なぜこんなにも恐ろしく映すことができるのか……とつい考え込んでしまった。
あのシーンに感じる恐怖はこれまで色んな作品で感じてきた様々な恐怖と比べても極めて異質と言える。
核爆弾がどういった代物か、どういった影響を残すのかについて概要を知っているからこそという面もあるにはあると思う。
「核開発の歴史」というテーマはあまりにも巨大すぎるが故に、やろうと思えば「アレが足りない」「コレも盛り込むべきだ」という指摘がいくらでもできてしまうという側面がある。
これは仕方がないことで、実際この作品には描かれていないことが膨大に存在するけれど、しかし描かれていることも同じくらい膨大なはず。
描かれていることに着目せず、描かれていないことばかりを取り上げるのは作品に対峙する姿勢として少しリスペクトに欠けていると思う。
それに、「原爆の父」を映画化するにあたって「何を描き、何を省くか」がどれだけ深く吟味されたのかについては想像に難くない。
昨今ますます混迷を極める世界情勢の中で目の覚めるようなこの一発をかましてくるところがクリストファー・ノーランという男の底知れなさを如実に表しているように思った。
傑作だと思います、オススメ
ストリーミング or 過去作品の再上映
3月は特になし。