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chapter6. 終章 モニュメント【アート系年表付き】
前回までのあらすじ
1972年(昭和47年)11月4日(土)
入間川に1機の航空機が墜落した。
この日、Nob(ノブ)さんと仲間たちは…
彼は橋の上にいた。
その視線は遠く浜松の方角を追っていた。
富士山が見えた。
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彼は入間から浜松への空の旅程を想像した。
富士山はパイロットにとって道標だ。今も昔もパイロットの逸話にはよく富士山が登場した。どの角度からでも富士山は富士山らしい姿で、よくわかるそうだ。それに富士山は本当に高い山だから、その周りは気流も要注意なのだと。
地上の自分たちはいつも新幹線の車窓から眺めるのが関の山だが、浜松まで…彼らならその旅程もあっという間だったろう。
ここからでは遠く小さく見えるが、きっと空を飛ぶ飛行機からならもっとよく見える。
そんな近接の富士には比べるべくもないがここからの富士もなかなかのもので、青空に浮かぶ富士山の雄大な姿は白く雪化粧しまさに絵に描きたくなるような美しい姿だった。
カメラは持っていたけれど、フィルムはなかった。だからよく観察して目に焼き付けるしかなかった。(彼はイラストレーターだから、後で他の機の背景であれ絵に描くこともあるかもしれない。)
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(と見せかけといて富士)
上のYSの富士を気に入ってたんですね
『航空縮尺イラストグラフィティ ジェット編』
下田信夫著(大日本絵画)と
『球形の音速機』下田信夫著(廣済堂出版)より
射出は成功したのだろう。青空に浮かぶ富士山の手前に見えるパラシュートは開き終わった後の花のようだ。
その姿は大切に心の中にしまっておいた。まだパイロットの無事がはっきりと確認できたわけではないのだから。詳しいだけに自分はろくでもない事例ばかり知っていることに気が付いて、愕然とした。パイロットは見当たらない。
今はただ無事を願うほかなかった。
墜落。Nobさんも想像したことはあるにはあっただろうけれど、自身初めてそのリアルな現場に立ってしまったショックは…(筆者には察するに余りある痛ましい状況なのだが)…そのショックは彼の親しい仲間たちにだけは感じられるようなものだったろうか。
「(富士山、もう冠雪していたんだ…。おうちには帰れなかったけれど、…773だった…あの機もここに来る時には見ていたかもしれないな…。)」
彼は上流側から下流側へ視線を移し、そこに点在する元機体たち…機体の残骸…F-86F #773の最期を看取った。
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ありがとうございます!
*
驚いたのは後日だ。追っての情報はつてにつてを伝い渡ってきた。
当日夕刻にはパイロットの無事の情報は入っていたが、まだ曖昧なままだった。これはもちろん皆気になっていたのでその後の伝聞でもやはり話題の中心となった。どうやらパイロットは意識もあり目立つ出血もなく自力で歩いて消防の人に話しかけていたようだ。本当に無事だったのだろう。
隊でのその後の処遇が気にはなったが、自分たちには直接的にはどうすることもできない。間接的にであれどうにかできないだろうか、こんなにも素晴らしい腕と才能を持っているのだから…。(頑健な身体と強運も彼の才能のうちだ!)
ともあれ無事で良かった!
だがNobさんが何より驚いたのは、当該機の「エンジンストール(燃焼停止)」だった。
Nobさんは現場で見た感じから、墜落・接地(接水)直前までエンジンは動いていたと思っていた。なのに…
自分の感じが思い違いだったのか?
(彼は大変に正確性を希求する性質であるのでこの疑問を放置しない。)
仲間のうちには雑誌など出版物に書いているような人もいるから、(自分も「描いている」身ではある)、間違いには相当気を遣う。こういった件では様々な立場の人の思い込みや伝聞違いが誤報につながってゆくのだ。これまでの他での事故の時にも身に染みていた。
自分たちが間違うわけにはいかない。
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「Nobさんたちの誠実さ」だと筆者は思う
(chapter5.)
写真はXより @oldconnie 石川潤一さん
ありがとうございます!
気になって、何度か他からも確認を試み、考え直してみる。
だが別ルートから入る情報も同様の内容だ。情報のソースは内部に近いもので、周囲からの他の情報と照らし合わせてもやはりエンジンストールの情報は正しいようだ。
エンジンは「止まって」いた。
じゃあ…あの機は…
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まるで、この機が自らの命の尽きる間際に主を救い、地上への被害を避け意思を持ってその天命を全うしたように…Nobさんには見えた。
……いや。そんなこともあるのかもしれないねぇ。
不思議なような不思議でもないような不思議な心持ちで、Nobさんは少し微笑んだ。
*
chapter6.(終章)モニュメント
そしてその後の物語…。
Nobさんは『モニュメント』を構想した。
(この『モニュメント』を巡る一連のあれこれが↓)
関連の出来事を年表にすると以下のとおり。
*
1971年(昭和46年)秋 登場人物二人(イラストレーターと彫刻家/下田信夫(しもだのぶお)画伯=Nobさんと最上壽之(もがみひさゆき)先生)が知り合う(横田基地外柵〜拝島駅)
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Googleマップより
(ここの話はIntermission.「擦れた銘板」)
倉澤實『四角柱上の胸像』、平和橋(拝島駅北口そば玉川上水)工事に伴い移動
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1972年(昭和47年)11月 入間川事故
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航空歴史館 F-86F研究 #773の項より
提供 geta-oさん ありがとうございます!
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同年1972年(昭和47年) 彫刻家最上先生静岡県熱海に自居アトリエを構える
1973年(昭和48年)秋 『第4回国際航空宇宙ショー』(入間基地)Nobさんと彫刻家先生は航空ショーを観覧
この際にひょんなこと(実はNobさんの案)からインスピレーションを得た彫刻家先生は、彼らのモニュメント制作の依頼を受ける
『航空兵の像』(入間基地 修武台)は復元前の姿だった
1974年(昭和49年)頃 彫刻家先生はNobさん宅へマケット(縮小模型。構想を提案する為の作品の素案。)を持参、モニュメント案としては没となる
1986年(昭和61年) 『航空兵の像』復元(入間基地 修武台) 修武台(旧館)を「修武台記念館」として開館
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画像は慰霊顕彰会HPより
同年 1986年(昭和61年)春 かのマケットは作品『タイヤヒラメノマイオドリ』として美術展に出品された。「みなとみらい21彫刻展 ヨコハマビエンナーレ’86」(日本丸メモリアルパーク(横浜市))
これは再開発が進む横浜みなとみらい地区への美術作品設置を予定したコンペでもあった。この後1989年開館する横浜美術館の準備企画だったように聞いている。('89年3月横浜博覧会のパビリオンとして開館、会期終了後11月正式開館)
1992年(平成4年)(1991年度/平成3年度) 倉澤實『四角柱上の胸像』(拝島駅前)銘板 復元改修後改めて設置
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4分の1の胸像をのせた造形
4分の3の虚の空間は
鑑賞者による像の復元の想像を 期待する空間
(画像はGoogleマップより)
1994年(平成6年) 『モクモク ワクワク ヨコハマ ヨーヨー』設置(横浜みなとみらい21地区 ヨーヨー広場)
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・この頃、Nobさんの仲間(国際航空宇宙ショーを共にした人物)と最上先生の間で年賀状のやりとりがあった
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↓間違って教えてしまったので情報を訂正してあげたかったようだ
・また、筆者の仲間(連作中 prologue. から筆者の回想に度々登場する人物「おじさん」)から最上先生に手紙が届いている
ジョン・レノン『♪Imagine』日本語訳入り
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(『Imagine』の話はchapter4.【後編】と
年表ver.サイトマップ)
だが やはり婉曲表現は通用しない
最「あいつ(Nobさん)はその筋ではそんなに有名なのか!俺も負けてはいられないぞ」という理解になってしまったようであった
・更にこの後、実はNobさんご本人が(この時あいにく最上先生は不在だったが)武蔵美彫刻科研究室を訪れている
1999年(平成11年)前後 筆者学生時代
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入れたいんだけど何色がいいかな?
あいつら拝島のと被りたくないから白以外で!」
と仰るので
「…黒じゃ墓石みたいなんで、ピンクですかね。」
と言ってしまったとある学生がいましてね…
(私です)
銘板画像は ARToVILLA「街中アート探訪記」Vol.27より
最上先生は私にNobさんを重ねていた
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見た目違いすぎやろがい
飛行機模型や写真ブログ 駆け出しジイジさん
ありがとうございます!
…そして最上先生に本当にその筋に詳しい人間だと思われてしまったのか、忌憚ない物言いが…あれは気に入られたというのか…。
スケッチブックの次の作品構想を見せられて「わかる?」「君はどう思う?」と聞かれた。最後には同僚先生づてで古い新聞記事のコピーを見せられ「どう?君わかる?」と皆に囲まれるというようなことになって困った。
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(chapter5. で読解)
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最後に私がこれを見たのは
1999年〜2003年あたり
最「横浜の作品のことが新聞に載って、それを見た
あいつの仲間からウチに年賀状が来たんだ。」
最「タイトル、『タカラブネ』と『シチフクジン』
どっちがいいと思う?」
「…先生の船 難破しかねないんで、『七福神』で。」
と言ってしまったとある学生が(以下同文)
(作品そのものの話ではないのでご容赦ください)
2003年(平成15年)秋 最上壽之展(横須賀市文化会館 市民ギャラリー)(主催・横須賀市教育委員会美術館開設準備室)
この後2007年に開館した横須賀美術館の開設準備企画として回顧個展が開催された
同年2005年(平成17年) 「修武台記念館」(入間基地)建物老朽化・リニューアルのため閉館
同年2005年(平成17年)11月 武蔵野美術大学教授退任記念 最上壽之展(武蔵野美術大学美術資料図書館)
武蔵美での通例どおり、退任(定年退職)間際の最後の年には学内で回顧個展が開催された
2012年(平成24年)3月 旧「修武台記念館」(旧館)が「航空歴史資料館 修武台記念館」(新館)としてリニューアルオープン
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Googleマップより
内部施設の為、当初は年1回程度の一般公開だった
2018年(平成30年)5月 Nobさん逝去
7月末 「Nobさんを偲ぶ会」(スクワール麹町 錦の間) 発起人には錚々たるメンバーが名を連ね、およそ100名もの人が集まり故人を偲んだ。
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(発起人 敬称略: 鳥養鶴雄 石坂浩二 帆足孝治 三井一郎 斉藤章二 武田頼政 杉山 潔 小室晴二 佐竹政夫 中村浩美)
同年 2018年(平成30年)秋 最上先生逝去
11月末「最上先生を偲ぶ会」(武蔵野美術大学造形学部彫刻科アトリエにて)
2019年頃〜修武台記念館見学会は月1回ペースで開催されている
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2019年(平成31年/令和元年)頃 倉澤實『四角柱上の胸像』拝島駅前周辺整備による一時移動・再設置 銘板に脚がついたのはこの頃か
2019年末〜コロナ禍
2023年5月 WHO(世界保健機関)、新型コロナ緊急事態宣言終了を発表
修武台記念館見学会は一時コロナ禍により中断を余儀なくされたものの、現在また月1回ペースで好評開催中
*
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埼玉県にある航空自衛隊入間基地の敷地内、「修武台記念館」の正面口入って左、にそれはある。
現代彫刻のようなもの、そしてその隣には丸い物体。
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「入間基地にモニュメントをという気運が盛り上がり」というような意のことが書いてあって、発足50周年記念として完成した、とある。
台座には、航友会の募金や協力者の名前がずらり。
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それはもう現場に行かないと読めない大きさで
画像は Googleマップより
ああ、カンパでつくられたわけですね。
現代彫刻のようなと言っても作家ものというわけではないのか、工務店か金属加工所かなにかの名が入っていたような。ああ、三菱重工とトリアド工房の名は入ってる。
ハニカム構造断面オブジェ、って感じの。
あれ、ひょっとしたら、実機のパーツを加工したものじゃないだろうか。…
…実はこれ「F-1型機」じゃないんだよね……。
隣の丸いのは、タイムカプセルらしい。
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100周年のときに開けるべし、という説明が書いてある。
この連作中、文中で『モニュメント』という表現を使ったのはこれらに倣ったものだ。
あの日の最上先生とNobさんの『モニュメント(仮)』、その後も話だけ残っていたのだろう。(Nobさんやあの時の仲間たちが、「皆元気なうちに」と思ってとにもかくにも形にしたものだ。)
実は……その丸い方に最上先生の木彫作品も入っている。
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Nobさんの仲間の1人がこう言っていた。
「あれは、俺らの友情の記念であり、安全の祈念碑だ。…Nobがな、あの人もあの頃の仲間のうちだから、とこう言うわけさ…」
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(chapter3.)
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Nob「彫刻にすれば見られるかも!」
仲間「さすがNob!だがそいつは随分デカくなるぞ!無理無理ハハハ」
最「?なんだ航空兵って?」
(chapter4.【前編】より)
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こちらの仲間たちを描こうとした。だが
「もう会っても分からないだろう…
顔も、声も…思い出せないんだ」
と仰っていた。
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中村浩美氏が書かれているこのエピソードを
最上先生は意識した
Nobさんは似顔絵も得意としていた
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『航空縮尺イラストグラフィティ ジェット編』
下田信夫著(大日本絵画)より
最上先生は これを彫刻でやろうとして
出来なかったのである
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もちろん、このタイムカプセルにはイラストレーターNob画伯の絵も入っているはずだ。
ヒコーキの絵だろうか?それとも…
修武台は内部施設だから、一般にいつでも公開されているわけではなく、月一回ペースで開催されている「見学会」への応募申し込み抽選が必要だ。だがこんなストーリーも時には詰まっていて、非常に興味深い場所となっている。
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*
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「空自は…2054年?」
「ここどうなってるのかな〜」「飛行場はあるだろ」
「修武台命名100年てことにして早めに開けようぜ
2041年」
「士官学校だともっと早いぞ2038年」
「入間か2輸空だともっと後だしなー2058年」
「長生きしようぜ!」
「…おっ」「出た!?」「出てる!」
「…おおお来たキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」
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この話は入間からひっそりとだが広く語り継がれ「知る人ぞ知るNobさん伝説」みたいになってしまっている。
そしてこれを継ぐ勇者たちは各々必ず自力でこの謎に挑戦せよ、そして伝えるに迷え!という羽目に陥っている。
100周年が楽しみだ。
旅立った2人の重鎮と仲間たちへ
「類は友を呼んだ」
S.S
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街のあちこちで今日も皆を見守っている