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プロジェクト型アートのかたち : 舞台と展示の外部をつくること

この文章は、コンテンポラリーダンスやコンタクト・インプロヴィゼーションの領域を中心に活動するAAPAが主催となって行われた企画『からだの対話の場をひらく』(2023年10月〜2024年6月)を振り返る目的で行われた、「からだの対話の場を結ぶ」(2024年6月)というトークイベントで交わされた内容が原型になっている。

『からだの対話の場をひらく』は「触れる/触れられる」がテーマのプロジェクトである。コンタクト・インプロヴィゼーションのダンスワークショップと、ダンスに限定しない「触れる/触れられる」に関連することについて話すトークミーティングを月に一度のペースで開催して、6月には舞台公演、展示、シンポジウム、哲学対話を行った。プロジェクトのメンバーは、ダンサー、俳優、美術家、哲学者によって構成されている。

「からだの対話の場を結ぶ」の企画意図について少しだけ書いておく。
この活動をプロジェクトとして見た時に、公式の場面だけではなく、打ち合わせ、休憩時間、帰り道、飲み会、制作過程などにおいてとても多くの言葉が交わされた。そこでは宛先を失い、途切れた会話もたくさんある。そのような言葉は、人目に触れるように形を与えられるわけではないが、形を持たないまま確かに活動を支えている。
6月には成果発表として舞台公演や展示が行われた。しかしわたしは、最終的に作品として造形化された表現だけではなく、プロジェクトメンバーがそれぞれ個人として考えていたことについて話すための場を設けた方がこのプロジェクトの企画趣旨に合っていると考え「からだの対話の場を結ぶ」を企画した。

1. ダンスと生活が交わるところ


「美術の分野では当たり前になっていることが、ダンスでは定着していない」

去年の秋、上本さん(ダンサー/AAPA主催)とトークミーティングの会場「藝とスタジオ」に見学に行った。その帰り道の電車の中で、上本さんからこのプロジェクトに取り組む時の関心について聞いた。
美術では分かりやすく輪郭を指摘できるような作品ではなく、行為や会話、その他にも名付けようもない人間の営みが、作品として認められていたりする。しかし、ダンスではそういうことは少ない。そんなことについて話したように思う。今回の『からだの対話の場をひらく』では、福祉、地域、子育て、ケアといったことがキーワードにもなっている。

「生活する中で出会う以上のテーマたちに対して、ダンサーとして一体何ができるのか」。
「ダンス」の輪郭を広げて行こうとした時に出会うキーワード(福祉、地域、子育て、ケア)と、ダンスはどんな接点を持てるのか。

こうした問いが、『からだの対話の場をひらく』の入り口になっている。
わたしにとっては、この時の会話で初めて上本さんの抱える問いに触れたような気がした。まだ上本さんとも知り合ったばかりで、どのような関わり方ができるのか探っていた時期でもあった。この時の会話が、自分にもできそうなことがあるかな、と思い始めた最初の記憶となっている。

2.公演と展示の外を造形すること


ここ数年、自分の活動の中で「プロジェクト」を一つのキーワードにしていた。特定のプロジェクトということではない。コンセプトを作り、企画書にまとめ、交渉・打ち合わせを行い、必要な準備をし、宣伝をして、開催して振り返るという一連の流れで行われる活動の形式としてのプロジェクトである。興味を持ち始めたきっかけはいくつかあるが、代表的な理由をシンプルにまとめると、企画を進めていく中で関わる人々が忙しくなり、味わいが薄れ、結果として何が残ったのか、やってよかったのか分からなくなると感じることが増えたからだ。
プロジェクト形式とわざわざ言うまでもなく、人が複数集まって活動するためにはこの手続きのフローが必要にはなる。しかしその過程において、擦り減って行く中で失われていくものを掬いたい、発表して間も無く忘れ去られ消費されていくことがどうにも耐え難い、そんな現状に対して何かできることがないだろうかと考えていた。暫定的ではあるが自分の中で腑に落ちていた案としては、「単位がはっきりしている表現・活動の周りに、その外部をつくること」だった。
今回で言えば「単位がはっきりしている表現」は、舞台公演や展示であり、その外部として哲学対話を行った。哲学対話とは集まった人たちでテーマや体験を共有し、それについて話すことである。哲学対話の時間では、舞台公演や展示を見て思ったこと、「触れる/触れられる」について考えたこと、発話者の生活の中で気になっていたことについて話した。哲学対話については改めて別のところで書くためここでは書かない。
ワークショップやトークイベントを続けていた頃は、中華料理屋の時間がその外部として機能していた。
中華料理屋について説明すると、ワークショップやトークミーティングの前後の時間で集まる時は、ほとんどが中華料理屋だった。特にメンバーの誰かが中華料理に強い拘りを持っていたわけではなく、たまたま回数が重なっていっただけである。そこでは主にその日の振り返りや今後の話が行われた。決定的な会話がなされたわけではないし、何を話したのかはあまり覚えていない。しかし紛れもなく、関係性が耕され、つくられていったのはあのような時間によってであると思う。
補足として加えておくと、中華料理屋についてはその時間が大事だと書きつつも、それは特にわたしが提案したものではなく、自然発生した時間である。

『からだの対話の場をひらく』のコンセプトに立ち戻れば、公演や展示と紐付く「触れる/触れられる」というテーマが中心にありながら、「福祉、地域、子育て、ケア」がその外に広がるテーマとしてあった。公演や展示に直接結びつくわけではないコンセプトがその外に広がっていることは、公演/展示に奥行きを与えたり、観賞者との関係性をつくるための窓口を豊かにすることでもある。
表現や活動の外部を意識することがなぜ大事だと考えているのかと言えば、それは公演/展示といった輪郭の定まった形式の表現が消費されないためでもあり、制作において関わる人との関係性ができるだけ平面的なものにならないようにするためでもある。
演劇やダンスや映画といった、没入型の芸術では制作者と観客が言葉を交わせる機会は多くない。アフタートークや舞台挨拶は言葉を交換する場というよりは、作り手が観客に向けて話したり挨拶するための時間だ。そこでは観客が作品を観賞して考えたことやそれに関連して思いついたこと、質問の形にはならない言葉を発する機会は特に与えられていない。こうした状況からは、作品や表現行為について時間をかけた思考・言葉は育ちにくい。
舞台公演や展示の周縁に、作品やコンセプトについての不定形な言葉を交わす時間を設けることは、プロジェクトとして活動することの意義の一つでもあると考える。

批評家の文章やSNSの感想のほかに、もっと観賞者が言葉を発したり、制作者と関わることができる土壌をつくることはできないものだろうか。
このような関心から『からだの対話の場をひらく』では、観賞後の哲学対話、シンポジウム、プロジェクトの振り返り会など、さまざまなタイプの長い話しをするための場を設けた。
ここから先は、「からだの対話の場を結ぶ」で実際にメンバーや観客から話された言葉を書き残していきたい。

3.「からだの対話の場を結ぶ」の記録


トークイベントは、集まった人たちの「プロジェクト」と「作品」についてのイメージをそれぞれ聞くことから始めて、長谷川が話し、そして最後にフリーディスカッションという形で進めた。ここでは冒頭の質疑応答から出てきた「プロジェクト」と「作品」についての言葉と、プロジェクトメンバーによって振り返りとして話された言葉の一部をまとめておく。連なった文章としてまとめることよりも、ここでは臨場感を残すことを優先して断片的なまま列挙する。

* * * * *

Q.あなたにとって「プロジェクト」ってどんなイメージですか?

・一定の期間が限られているもの。始まりと終わりが定まっているイメージ。
・誰かと一緒に作るもの。
・目的があって、それを達成するために人が集まる。最初に人よりも目的が来る。
・プロセス。個人の中で継続していくもの。
・プロジェクト=プロジェクション(投影)。根源があって、それを投影する先がある。過去と現在。作品を制作していると見失うことって?
・建築におけるプロジェクトチーム。「計画分野」。大型の計画。アポロ計画。ダム作る。⇒もやもやしてくる。「10年後に人間を月に到達させる」タスクの山。
→今現在自由になることと、10年後の目的に縛られること。
・都市計画、住民への説明。不測の事態が起こった時に、「説明したじゃん」となる。
⇒言葉の次元で可能なことと、人間の実際の身体的粘度のリミット。
・アーティストはなぜ頼まれてないのに作品を作るのか。
・建築のプロジェクト志向からアートのフィールドへの移行。
・ディバイジングの技法⇒演出家のトップダウン制作を阻止する。
・触れるws、触れた体験を絵に描いてもらう。⇒絵を描いたから出てくる。
・演出とケア、プロジェクトとアートの矛盾。
・職業演出家と、「演出」という作業の残余。

Q.あなたにとって「作品」ってどんなイメージですか?

・人に届けることができること・もの。
・手に取れるもの。
・自分が作りたいものを作る。(プロジェクトと比べて)
・成果物のウェイトが(プロジェクトに比べて)ある。
・自分だけじゃなくて、他者から見られる可能性があるもの。
・プロジェクト⇒海に船で出ていく。作品⇒収穫した魚たち。

プロジェクトメンバーによる振り返り

佐藤鈴奈(俳優)
・ダンサー、「その人がそのまま立っている」。演技は役を背負う。
・言葉の有無。言葉は人を形作っていける。「そのまま立ってる」ことを俳優としてやってみたかった。
・戯曲を扱う「ルール」みたいなものが決まってくると「とりあえずやってみる」段階になる。

古茂田梨乃(ダンサー)
・俳優、物語を大事にする。稽古の中での、ダンサーと俳優にとっての言葉の重要度。言葉と絵。ダンサーは「とりあえずやってみる」。
・役を与えられることが普段のダンス創作ではない。役の身体感覚。感情と身体感覚。
・「死んだまま生きてる」。歴史的に、ダンスは人に見せるものとして生まれてない。
・展示は、一度作ったら置いておけるもの、ダンスは、日々変わるもの。
・「触れる/触れられる」について⇒ダンサーは触れ方を知っているように思う。それは、自分を守る術を知っていることでもある。

上本竜平(ダンサー/AAPA)
・ダンサーと俳優、ダンスと演技。「なぜ」を大事にするのは演劇。
・劇場だけでダンスを舞台作品化していくのは難しいと思った。
・小野さんの展示創作から:身体接触以外の「触れる」ことのアプローチを、他の分野の人たちがしてる姿を見ることができた。

新上貴美(俳優/演劇集団円)
・心を扱ってると、「なぜ」が出てくる。お客さんのことを考える。舞台上の人間の振る舞いが観客に与える影響。本を読むことと違う体験を生み出すのが演劇。
・「嘘のない」演技。自分の中の「本当」を探す。疑問を持ったままでは、思った通りのことはできないから「なぜ」が生まれる。自分の声は自分で聞こえない。最善を教えてくれるのが演出家。自分だけじゃどうにもならないことをやってる。「恥ずかしくない状態」で舞台に立ちたい。
→小野さんへ
作品を置いておけるのに、展示の時誰よりも本人がそこにいる。

小野愛(美術家)
・「触れる/触れられる」から、自分が思いついたのは、「触れようとする」。
・「演技の嘘」から⇒小野さんの作品制作にとっての「切実さ」
・「触れる/触れられる」に関わる時の切実さとして「触れられない」がある。
・外から来たテーマで制作することから広がるもの。
・貴美さんの言葉を受けて:人の話を聞きたい、在廊している理由でもある。お客さんの「触れた記憶」を聞きたい。
・舞台作品を作る現場にいるの初めて。どういう思考回路でみんなが動いているのか。
→上本さんへ
身体接触に興味がある人だと思っていたけど、最後に「こころに触れる」に興味が出てきたと言ってたのが気になる。

* * * * *

会場には、建築家、身体表現者、会社員、通りがかりの人などさまざまな人が集まり、それぞれの人生経験に根ざした「プロジェクト」や「作品」についてコメントがあった。
プロジェクトメンバーによる振り返りでは、俳優とダンサーにとっての創作感覚の微細な違い、身体表現者と美術家のそれぞれの立場から気になる両者の違いなどについて話された。初めて見る人、あるいは会場を訪れていない人にとっては閉じられた内側の会話に見えるかもしれない。しかしそれは「振り返り」の焦点をどこに当てるのかという問題でもある。振り返り会は2日間に分けて行われた。初回は観客を交えての対話の時間を多く取り、2回目はメンバー同士が言葉を交換する時間が多くなるように会を設計した。

4. プロジェクトを記述することにおける経験的な多層性


ここまでも書いてきたように、『からだの対話の場をひらく』にはわたしも一人のプロジェクトメンバーとして参加した。なのでこのプロジェクトについてわたしが残す文章には、一人の当事者としての目線が不可避的に含まれることになる。

プロジェクトについて記述する場合、記述する者の立場は大きく分けて二つある。一つは自分もプロジェクトに参加して当事者として内在的な視点から書くこと。もう一つはプロジェクトを観察対象として、距離を持って記述すること。
このトピックについて、ここで一つ補助線を引いておきたい。例えば文化研究者/美術家の山本浩貴は、ソーシャル・プラクティスの批評について次のように書いている。

ソーシャル・プラクティスの批評においては、異なる層の経験を同時に考慮しながら、その両者が混ざり合うことで生まれる効果にも目配せが必要となる。/さらに、ソーシャル・プラクティスのかたちは批評家が参与することで変化する可能性があることも忘れてはならない。それは、前節で触れたように、アーティストとオーディエンスの互恵的交流を重視するソーシャル・プラクティスの特性に由来する。まるで量子力学の世界のように、観察主体(批評家)が観察対象(作品)に微細な影響を与えるのだ。/そうした理由から、ソーシャル・プラクティスにおいて分析単位として機能するような、輪郭を伴う「かたち」を前もって抽出することは難しい。〔…〕ソーシャル・プラクティスでは個々のケースを具体的に観察しつつ、主観と客観、あるいは参加者と鑑賞者といった従来的な二項対立の枠組みには囚われない新しい批評的記述の「かたち」もまた求められていると言えよう。

(1)山本浩貴「ソーシャル・プラクティスのかたち」『コンセプチュアル・アートのフォーム』ユミコチバアソシエイツ、2024年、90-91頁

「ソーシャル・プラクティス」とは現代美術において、関係性や社会的・政治的な意義を重要視する形式の活動である。詳しい補足は省くが、ここまで「プロジェクト」について述べてきたことを念頭に置いて読んでもらってかまわない。
ソーシャル・プラクティスと呼ばれる形式のアートについて書く時、書き手が当事者や参加者である場合もあれば、自分は関与せずに活動を分析対象として記述する場合もある(2)

今回、わたしは自分の立場があらかじめ固定されていたわけではない。ぼんやりとだけ見えていた活動内容のフレームを意識しながら、そもそも何をすることが最善なのかということを終盤まで探っていた。山本が上の文章で指摘するように、プロジェクトの道筋において輪郭を伴うかたちを抽出し、それに沿って進んで行くということは難しかった。そこには、不定形ゆえの創造性と負荷が共存する。
作品と同程度に対話や関係性を重視するプロジェクト形式のアートにおいては、制作者、観客、作品、それについての言葉たちの関係性は不定のペースでゆらぎ続けている。そのことは、プロジェクトが終わった後でも続くように思う。6月の展示と公演、対話形式のイベントをもって『からだの対話の場をひらく』のプログラム自体は全て終了した。しかしそこで出来た関係性はもちろんのこと、経験的な厚みは確かなものとして残っている。
時間や空間を隔てて、『からだの対話の場をひらく』をきっかけとして蒔かれた種が、今後もどこかで育まれていくことを願っている。現時点では予測のしようもない別の時間や空間において、異なる他者によって再発見され、活動が紡がれていくこと。人間にとって未来に向かってアイデアを投げること、すなわちプロジェクトとして活動することには、そんな希望が込められていると思う。(文:長谷川祐輔)


(1)山本浩貴「ソーシャル・プラクティスのかたち」『コンセプチュアル・アートのフォーム』ユミコチバアソシエイツ、2024年、90-91頁。)

(2)参加者というよりは観察者としてプロジェクトについて書いた文章として以下のものがある。「『プロジェクト』の時代における学園空間とコレクティフ:「平砂アートムーヴメント(HAM)」に寄せて」(『archive : HAM2022』(HAM2022実行委員会、2023年6月))



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