プロジェクトの哲学──第3回「作者」
プロジェクト型の制作形式が一般化してくると、作品とプロセスの仕切りが曖昧になったり、事務作業が作品の完成度に与える影響力が増してくることになる。プロジェクト型アートは、集団の理念や作品のコンセプトだけではなく、制作にあたって必要になる作業の変化にも注目しなければならないだろう。今回は、制作環境の複雑化を踏まえて、制作における主体として想定される「作者」について整理してみたい。
(1) プロジェクト的作者
プロジェクトにおいて作者とは誰だろうか。文学作品や美術作品は、個人と作品が結びついていることが多い。しかしプロジェクト型のアートになると、制作のメインはアーティストというよりも「リーダー」や「代表」と呼ぶ方が相応しい立場の人が担うことになる。もちろん、アーティストがチームをまとめる代表を担っていることもある。しかしそれにしても、現代アーティストは、純粋に芸術作品だけを制作しているわけではなくなっている。メッセージの発信や政治や地域への介入や、生活と芸術の境界が曖昧になっている。アーティストを囲むこのような状況について、グロイスは次のように指摘している。
アーティストは、作品を作るだけではなく、自分の活動の一環として、長期プロジェクトへ参加したり、政治的なアクションを行ったり、文章を書いたりもする。また芸術活動を行う時のフィールドであるインターネットは、アーティストの日常生活の場面においても地続きになっている。グロイスが述べるところの「個人のグローバリゼーション」は、作者を脱フィクション化された現実の個人へと引き戻す。ソーシャル・メディアを中心としたインターネットは、芸術に限らず個人の活動発表の場として機能している。今日の作者は、もはや神話化される対象ではなく、インターネットにおいていつでもアクセス可能で、多くの鑑賞者とさほど変わらない生活を送っている個人ということになる。
インターネットをフィールドとした「芸術形式としてのプロジェクト」は、一見個人、作品、活動の豊富なヴァリエーションを生み出し、芸術の民主化を推し進めているように見える。実際にある部分ではそうなのだろう。しかし、そこにはいくつか大きな問題もある。そのうちのひとつとして、表面的には多様化しているように見える活動をささえている形式が、一元化しているということがある。そこでは数の原理しか働いていない。インフルエンサーなる立場の人間がアップするビジュアルと、アーティストが時間をかけて制作した作品が並列に置かれたり、Youtuberの動画と研究者の講義が並列に置かれることになる。本来完全に異なる時間軸によって生み出されたものが、ワンクリックの即時的なリアクションによって「評価」を下されることになる。
(2) ステートメントのプレゼン的意識
評価の規則は、人の意識を規定する。数の原理に投げ込まれれば、自然にそこで数を獲得したくなるのが人間である。今やインターネット上に存在しない活動は、インターネットだけではなくこの世界に存在しないことと同義であるかのように考えられたりもする。そうした、不可視の忘却に抗うべく、耐えずおのれの存在をアピールすることも求められる。アーティストが自らの作品について書く文章として、「ステートメント」というものがある。
ステートメントとは「宣言」とも訳されるが、それがひとつのムーヴメントを形成し、批評的機能を担っていた時代もあった。
しかし21世紀においてはそうではない。哲学者の千葉雅也は、アーティストの「ステートメント」を切り口として、現代の世界における広告的なプレゼンの提示が含む弊害を指摘している。
ステートメントは、今や「宣言」によってムーヴメントを立ち上げるものではなく、アーティストが自らの作品に込めたコンセプトをクリアに示すための言葉になっている。そこでは「よくわからないものの「問題性」」をそのまま示すことは難しい。なぜなら、人が求めているのはよくわからないものをシンプルに理解できる「言いたいこと」へと変換することだからだ。
こうした社会に蔓延する抑圧は、おのれのやりたいことをシャープに示し、既存の評価軸で評価を獲得していくことが自然であるかのような身振りが一般的になる。そんな流れが加速していけば、個人における思考の簡易化、集団における倫理の希薄化などをもたらしていくことになるが、むしろこうした事態を危機と感じる人間が少数派になっていくということにもなる。
(3) プロジェクトの二重性を回復すること
最後に、20世紀に活躍したドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが、1934年にパリ・ファシズム研究所において発表したスピーチの一部を想起しておくことには意義があるだろう。
ベンヤミンは、ここで作品とある時代において支配的な生産関係の結び目について問いを提起している。ベンヤミンが取り上げているのは文学作品であったり、時代背景も異なるが、プロジェクトについて考えるにあたって示唆をもたらしてくれる。ベンヤミンが提案しているのは、ある時代の生産関係と作品をそれぞれ独立して考えるのではなく、支配的な生産関係とその中で作品がどのような機能を担っているのかということである。ここまでの流れと重ねてパラフレーズしてみれば、次のようになる。プロジェクトという生産形式において、作品はいかなる機能を担うことができるのか。消費されるだけの作品なのか、あるいは長い時間をかけて何かを醸成するための萌芽を宿した作品なのか。
数や知名度を尺度とする評価の仕方は、作品や個人の違いを抹消する。緻密に付き合えば見出せる作品や個人の複数性も、ひとつの尺度で測ることによって無かったことになる。
しかし、わたしは、そうした複数性を救うことが、人を急き立てる形式としてのプロジェクトに抗いうる、数少ない手段だと考えている。それは、自分の活動において、現在支配的な時間軸とは異なる時間の流れを織り込んで行くことでもある。
「前に(pro)投げること(jacio)」としてのプロジェクトには、大きく二つの意味がある。ひとつは「前」とは目の前の相手ということ、もうひとつは時間的な前、すなわち未来に向かって未然の何かを投げることでもあった。この社会ではいつの間にか、後者の意味での、時間的な余白を含んだ方の「前」の意味が失われ、前者の、目の前の相手に向かってアイデア、メッセージ、主張を投げるということだけになってしまった。「プロジェクト」の意味が一元化されたことによって、人は急き立てられるようにイベントを立て、作品をつくり、日常を紹介する社会になっている。それは、遠い時間を生きる/生きた他者ではなく、今生きている横の他者に対してアピールする性質──すぐ伝わる、わかりやすい、人目をひくなど──を持つ言葉が、最も力を持つ社会になっていることを意味する。
一元化されたプロジェクト型社会/アートに対して、プロジェクトの複数性を回復すること。それは、個人や作品に対して時間をかけて付き合うことでもあり、現在に内包された未来や過去を意識することでもある。現代の作者には、このような理念が要請されているように思う。(文:長谷川祐輔)
(1)ボリス・グロイス『流れの中で』河村彩訳、人文書院、2021年、215-216頁
(2)千葉雅也「プレゼン的意識の20年」『アートコレクターズ』(文学とアート特集)生活の友社、2023年、10月号、15頁
(3)ヴァルター・ベンヤミン「生産者としての〈作者〉」『ベンヤミン・コレクション 5 』浅井健二郎他訳、ちくま学芸文庫、2010年、390頁
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