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ミシュラン三つ星の老舗料亭の主人が斬る! 予約困難な高級店から見る酒場の今と昔

雑誌記事を目にし、常日頃、ぼんやりと疑問に思っていたことに対する、ひとつの答えにたどり着けたような気がしています。


⚪︎予約困難な高級店に群がる人々?

興味深い記事を、「DIAMOND ONLINE」で見つけました。

『【老舗料亭の主人が一刀両断】お金持ち狙いの予約困難な高級店、そんな商売って意味あるん?』という、過激な見出しです。

記事は、ミシュランガイド3つ星和食料亭「菊乃井」の三代目主人の村田吉弘さんが、最近増えてきた「予約が取れない店」について、疑問を呈している内容となっています。

普通の人が払えない価格設定の高級店にしたがる飲食店が増え、お金を持つ人だけが群がっている。

予約困難ということで、それがまた評判になり、予約競争をヒートアップし、数ヶ月、場合によっては年単位で予約待ちができている現象がおかしい、と一刀両断されています。

その冒頭では、「料理屋、料亭は電話帳に載っている以上『公共』だ。大衆に支持されてこその、料理屋であり、料亭である」という持論を展開します。

これは非常に面白く、興味深い考え方です。

公共と聞けば、まずはお役所のことを思い浮かべます。

ですが、そうではない、料理屋や料亭といった飲食店も公共なのだ、公共施設なのだというのが村田さんの理屈なのです。

・・・面白くないですか?(笑)

⚪︎飲食店は公共施設なのか

電話帳なりで、誰の目にも情報届けられているから、公共なのだ、パブリックなのだ、という理論も一定程度「なるほど」感があります。

一方で、個々人の金銭的負担によって、プライベートな活動を行う場であるのも飲食店、もしくは電話帳に載っている他のサービス業であることも間違いないと思います。

誰しも、飲食店での姿を、公共だからと開示されたり、ネットで晒されたりすることは望まないでしょうし、行き過ぎると、大昔に学校でならった「宴のあと事件」に始まる、プライバシー権の侵害となります。

ですから、公共と言い切るのは難しいと思いますが、反面、村田さんの論にも納得できる部分もないとはいえません。

公共というのは、一般的に社会全体に関することだと理解しています。

そして、飲食店は、だれにもひらかれた場所であり(出禁になった客は除きます 笑)、食事や酒を提供することで、一人ひとりの利益(空腹感や安心感を満たすこと)につながっている、つまり、経済活動を通じて、公益を生み出す装置でもあるからです。

飲食店、特にわたしが愛する酒場というスペースは、旨い酒や旨い肴に喜びをおぼえ、居合わせた人々や店主や女将さん、従業員などとの会話やふれあいに癒され、明日への活力を生み出す役割を担っているのです。

そんなふうに考えると、村田さんのおっしゃることも、別な視点から切り取ってみると、筋が通っているようにも思えます。

⚪︎値段が高いことが上等なのか

では、公共かどうかという議論からいったん離れ、高額な価格設定について、考えてみたいと思います。

少し前のことですが、経済学をテーマにしていたラジオ番組を聞いていて、「へぇ、面白い考え方だな」と感心したことがありました。

19世紀〜20世紀初頭のアメリカの経済学者・社会学者に、ソースタイン・ヴェブレンという方がいるそうなのですが、『有閑階級の理論』という著作で、富豪たちの豪華贅沢な生活様式や消費スタイルを、「誇示的消費」「金銭的競争」などと新しい用語で強烈に皮肉ったそうなのです。

金持ちたちの消費は、見栄や体面や優越感を得たり維持したりするための「見せびらかし」である、との主張のようです。

わたし自身は、村田さんが批判的に話す、5万円・7万円もするような鮨店や、高級フレンチ店などに行ったことはありませんし、あまり興味もありませんが(ご馳走してくださる方がいらっしゃる場合は別です 笑)、ヴェブレンの言わんとすることもわかる気がします。

人間誰しも、高級なものや高額なもの、希少なものを所有したり、大金を積まなければ体験できないコトに対し、憧れや欲を持つことは、ある程度仕方がない気がします。

高い腕時計を身につけたり、高級車に乗ったり、タワーマンションに住んだりするのも、人としてのさがとして、当然のように思えます。それが単なる「見せびらかし」だとしても。

一方で、安価で、長持ちして、実用的なものは、世の中にごまんと溢れているわけはありますが。

⚪︎文化継承の場としての「大衆の場」の必要性

お金を持っている方々が、自分のお金をどう使おうとわたしがとやかくいう権利も、そのつもりもないです。

それで経済が潤うのなら、それでいいと思いはします(そして、多少はうらやましいですが 笑)。

ですが、何万円も払う必要があるうえに、激しい予約競争に巻き込まれないかぎり、ある特定の酒や肴や空間にありつけないのはちょっと寂しいですかね。

そこに価値を見出し、重い経済負担を容認している方々の正当な権利だということは、理解できますが。

自由経済主義社会のルール、といえばそれまでです。

でも、論点がずれるかもしれませんが、格差が広がるなか、ラーメンやそば・うどんが高級食になり、ましてや鮨なんてますます非日常な存在となることは、受け継がれてきた日本の大衆食文化の喪失にもつながる危惧が残ります。

これまで、地域地域にあった郷土料理や地元民が愛してきた食が、飲食店のメニューからひっそりと姿を消え続けている現代にあっては。

大衆=公共の場としての食堂や酒場は、数多くの思い出を作り出し、物語をつむぎ、出会いを演出し、人間らしい営みの中心的な存在だったこともあったことでしょう。

村田さんの記事が、「『普通の人が普通に入れない料理屋』って、やっぱりどこかおかしい」と締めているのは、こういう側面への懸念もあったのではないかと、勝手に推測しているところです。

いつか、どこかで書きましたが、「居酒屋とスナックの中間」のような酒場を好む傾向があるわたし自身としても、「普通の人が普通に入れる酒場」がやはり大事だな、と考えさせられました。

わたしも多少なりとも「一見さんおことわり」の飲食店を訪れた経験があり(高級店というわけではなく、紹介がないと入れない店です)、ひとり悦に入ることもありましたが、いま思えば、未熟で浅はかでした。

誰かにその体験を話すなどしていて、傲慢でした。

ヴェブレンのいうところの、「見せびらかし」のような心理状況にあったことは否定できません。お恥ずかしい...…

「人がなにに価値を見出すのか」

そんな原点に立ち返ることができる、いい記事に出会えました。

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