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実験寺院 寳幢寺(ほうどうじ)の実験とは

大阪での仕事がお客様の都合で、ぽっかり1日空いたこともあり、手放す経営ラボで話題になっている寳幢寺(←この漢字、検索窓からなかなか出てこない💦)をふらりと訪ねて行ってきた。

お会いしたかった龍源先生はあいにく不在だったが、お弟子さんの松波さゆりさんにお話を伺うことができた。

アポ無し突撃取材にも関わらず、快くお話くださいました

【なぜ実験寺院なのか】

東南アジアやチベットなどの仏教国では寺院はいずれも在家社会によって運営されており、出家者集団と在家者集団とが明確に役割を分けているのが普通らしい。

寺院とはどうゆう存在かというと、在家の人々が生きていて判断に迷ったり悩んだりしたときに、相談したり教えてもらう場所であり、人生をどのように考え、選択して生きていくかの哲学や指針、そのための実践方法を教わり学ぶことが出来る場とのこと。
「師匠が敢えてライトに表現された言葉ですが、今でいうライフハックと言えます」という言葉が印象に残った。

一方、日本では出家者と在家者の区分や役割が曖昧で、寺院はお葬式や法事のお布施という対価があるからこそ、生業が成り立つという構造になっている。

では、他の国々の寺院がどのように運営を成り立たせているかというと、在家からの寄付となるのだが、前提として、日本のようにお寺があってそこに決まった僧侶がいるというスタイルではなく、僧侶は遊行(ゆぎょう)と言って、一つの場所にとどまらず、必要とされるところを巡る。

在家の体の病を治すのが病院であるように、心の病を治すのが寺院という位置付けでもあり、病だけでなく、人生をより幸せに豊かに生きていくための方法を教えてもらえる場所であり存在という寺院と僧侶。
在家の人々が僧侶に自分たちのところに留まってほしいが故、寺院を建てたり、必要物品や食をお布施し提供したりする。

海外の寺院は必ずしも外観にはこだわっておらず、雑居ビルの1室が寺なんてこともあるそうだ。例えばそれが掘っ立て小屋でも青空の下であっても、教えを必要とする人と正しく仏法を伝える僧侶がいればそこが寺である。という認識であるとのこと。

京都の織物工場跡に作られた寺院。看板がなければ素通りしていた。

で、なぜここが実験寺院かというと。ミャンマーなどの仏教国の寺院運営をモデルとし、お葬式や法事を行わず、在家の人々からの寄付で活動資金を賄うということを実験しているからなのだ。

【200年後を見据えて】

「仏教が仏教と言わなくてもよくなる世界」を目指している。
お互いを思い遣り、助け合う。この仏教の根幹の世界観が、それが自明のこととして敢えて「仏教」と言わなくても個々人にインストールされている世界へと。そんな世の中の実現は、すぐには出来ないだろう。しかし、200年後の世界を見据えて、ひとりひとりが相手を思い遣る気持ちを持ち続けることができたならば、その世界観の種を植え続け花開く土壌を耕し続ければ、我々の未来の世代にはそのような世の中になっているだろう

仏教が自明のこととしてインストールされている実例をひとつ伺った。
寳幢寺のコミュニティに居るあるチベット人留学生は、生活費を捻出するため学業と並立しながら週5のペースで牛丼チェーンでアルバイトをしていた。ある時、お客様が牛丼を食べたにも関わらず、お金を払いたくないと言い出したらしい。その時、チベット人の留学生は、すぐさま「お金を払いたくないのですね。では代わりに私が出しましょう」と言って、自らの財布を取り出そうとした時に、店長に呼び止められ、「そんなことをするな」と注意を受けた。(結局、客はお金を支払ったとのこと)

お店のルールとしては、あってはならないことなのだろうが、チベット人の彼女からすれば、困った人を助けるのは当たり前なのに、なぜダメなんだと納得がいかなかったそう。何らかの理由で払いたくないという気持ちを抱えた人に、差し伸べられる余剰があったから力になりたいと自然に行動に移しただけだと。

そこにあるのは、ごく当たり前に他者のために出来ることを考え、思い遣り助け合うという仏教の世界観そのものだった。

今の世の中はルールで縛られ、もちろんルールがあるから一定の安心・安全を担保されているわけだが、行き過ぎると、まるで「こうでああでなければならない」という縛りや、上司に怒られるからとか、常識から逸脱することはよくない、など不安や恐れが元になっているのではないか。

西陣織の元工場の中に御堂が

【日々のあり方】

ここ寳幢寺では日々様々な人が訪れ、対話や学びの時間を過ごしている。御堂も龍源先生をはじめとした諸先生方の講話会や、武道の道場として、さまざまな方々に利用されている。
対価は一切求めず、この場を、存在を必要とする人たちの寄付のみでの運営を続けているとのこと。
 
そして、実験寺院のあり方としては、余剰をため込まず社会を豊かにすることにどんどん循環させている。
とにかく与えられるものはとことん与えるということを実践しているとのこと。与えられるものとは、さまざまなものが含まれていて、笑顔でさえそのひとつだという。

そのためには常に心の余剰が必要。決して無理はしてはいけない。

現在、寳幢寺は金銭の寄付だけでなく、全国各地からお米や地場野菜をはじめとした食材、またロウソクやお線香などのお供え物や備品など、物品の寄付も日々寄せられている。金銭的には決して楽ではない状況は未だ続いているが、沢山の方の応援のお心や行動に支えられ今日まで運営を続けてこられているとのこと。

もっぱら我々人間の心配の根底にあるのは、衣食住が確保できるかどうかということ。着るもの・住むとこ・食べるものがあれば、心の安定は得られるだろう。

僕の実験は、より多くの人との出逢いを増やし、生き方の選択肢を増やすこと。

そのためには、日々の生活での余計なものを削ぎ落とし、心の余剰のスペースを作ることが大切だと感じた。

武道の練習にも使われている

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