「車でお遍路」満願成就 八幡山 東寺(大師に結願をご報告!)
こんにちは、旅いこかです。
四国別格二十霊場巡礼、お遍路の旅を終え弘法大師への結願のご報告は、
八幡山 秘密傳法院 金光明四天王教王護国寺
京都の中心、平安京鎮護のために南端正門である羅城門の東側に建立した教王護国寺(東寺)、
車でお遍路、四国八十八箇所満願成就で参拝した高野山は、大師の修禅の地であり、今なお人々の救済を祈り続けている真言密教の聖地。
そして、四国別格二十霊場満願成就で参拝する東寺は、大師が高野山で得られた智慧を利他行として実践する布教活動の主拠点。
真言密教の聖地として有名なのは「高野山金剛峰寺」であるが、布教をするためには人の集まる場所でなければならず、大師は布教活動の主拠点として嵯峨天皇から下賜された「教王護国寺(東寺)」を根本道場としたようです。
なお、東寺は、1994年には「古都京都の文化財」としてユネスコ世界文化遺産登録。
構造物では、金堂、五重塔、大師堂、蓮花門、観智院客殿、は国宝に登録指定されています。
お参りする前に知っておいた方が良い知識
歴史
延暦15年(796年)、東寺の造営が始まる
弘仁14年(823年)、弘法大師は嵯峨天皇より東寺を下賜、真言密教の根本道場とする
天長2年(825年)、弘法大師は講堂および講堂諸尊の造営を始める
天長3年(826年)、弘法大師は五重塔の造営に着工
承和2年(835年)、弘法大師高野山に入定※
承和6年(839年)、講堂諸尊の開眼供養する
元慶7年(883年)、五重塔が完成
建久8年(1197年)、大師堂(御影堂)の弘法大師像造立
建武3年(1336年)、足利尊氏本陣を置く
延徳3年(1491年)、戦火で焼失した講堂が再興
永禄11年(1568年)、織田信長入京し宿所とする
文禄5年(1596年)、大地震により講堂など大破
慶長3年(1598年)、北政所が講堂を修復
慶長8年(1603年)、金堂完成
正保元年(1644年)、4度焼失した五重塔を徳川家光発願により再建
※入定
入定とは、「禅定に入る」という意味であるが、ここでは、弘法大師が奥之院の霊廟に入り現在も禅定を続けているという信仰。
弘法大師
五重塔【国宝】
京都のシンボルで、総高55mと現存する木造の塔として日本一の高さを誇る。内部には、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、それぞれの脇侍が祀られている。
天長3年(826年)に弘法大師が創建着手し元慶7年(883年)に完成したが、その後落雷等により4回焼失している。
金堂【国宝】
東寺一山の本堂で、御本尊に薬師三尊である、薬師如来坐像、脇侍に日光・月光菩薩像を祀る。
弘法大師は嵯峨天皇より東寺を下賜された弘仁14年(823年)には完成していたと推定される。その後、文明18年(1468年)に焼失、豊臣秀頼の発願で再興し慶長8年(1603年)に再建している。
講堂【重要文化財】
大日如来を中心に五智如来、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天、と二十一躰の仏像が織りなす密教浄土の世界「立体曼荼羅」があります。これは、難しい密教の教えを立体で表現。
天長2年(825年)に弘法大師が着工、承和2年(835年)頃に完成。その後、台風や地震で大破し度々修復を重ねたが文明18年(1468年)に焼失。延徳3年(1491年)に再興。
大師堂(西院御影堂)【国宝】
かつての弘法大師の住坊で、伽藍の西北部に位置する。
後堂(南側)には大師の念持仏である不動明王像(秘仏、国宝)、前堂(北側)には弘法大師像(国宝)を安置する。
建久8年(1197年)に大師堂(御影堂)の弘法大師像造立、康暦元年(1379年)に焼失、翌年に再建、明徳元年(1390年)に礼堂と中門を加えた。
ご詠歌
写真
最後に
私は、弘法大師に四国八十八ヶ所巡礼そして四国別格二十霊場巡礼「同行多人(私の造語)」の旅を無事結願したことを報告、そして感謝を述べ、お遍路の満願成就を迎えることが出来ました。
そして、東寺での参拝後、高野山の参拝後と同様に、
新たな修行が再度「始まった!」
と心の中で静かに頷いた瞬間でした。
合掌