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「車でお遍路」 お遍路をして気付いたこと
お遍路をしてみたい。
十年以上前から思ってはいたものの、お遍路の知識である必要なものやスケジュールがわからず時間が無いことを理由にしてこれまで実行に移せなかった。
だけど、「あまり形式に拘らずやってみよう!」といざ決意をすると、意外と容易に始めることが出来、苦労もあるが88ヶ寺の結願を無事達成。
達成した喜びは十分。
ただ、その喜びも徐々に消えつつある。それは、各札所をnoteに記録するために思い返すと、本来訪ねるべきところを訪ねてなかったという後悔。
結願所である第88番札所大窪寺の薬師如来の扁額、「薬」の文字が未完成という。それは、結願所は終わりでなく、新たな始まりでもあることを示したことだという。
お遍路は、恐らく巡礼した時の季節や天候や体調などもあり、毎回違った気付きもあるだろう。
この終わりなき旅をこれからも噛みしめながら続けていこうと思う。
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お遍路の起源
その始まりは確かな資料は残ってないとのことですが、
飛鳥時代から奈良時代、吉野や熊野の辺地には、行者(修行者)による苦しく辛い修行をする山岳信仰や海の信仰が既にはじまっていた。
大師の故郷讃岐のある四国においても、辺地であったことから行者が既に訪れていたよう。
そして、私が四国八十八ヶ所の札所を巡り、各札所の寺院を開基した人を調べてみると、
太宗が行基菩薩、弘法大師、
続いて修験道の開祖役行者小角(47、60、64)、日証上人(68、69)、正澄上人(43)、明神右京・隼人(44)、恵明上人(49)、真野長者(52)、越智守興(58)、聖徳太子(61)、和気道善(76)、和気道隆(77)、義渕僧正(83)、鑑真和尚(84)、藤原不比等(86)、と大師が開基したお寺より歴史の古いお寺が数多くあります。(カッコ内は札所番号、敬称略)
弘法大師が八十八ヶ所霊場を開設
延暦24年(804年)に遣唐使で唐へ渡った弘法大師は、唐の青龍寺・恵果和尚から密教を学び大同元年(806年)に帰国。
そして奈良吉野、和歌山熊野、四国、と長く苦しい修行を続け高知の御厨人窟で悟りを開く。
日本(和国)においても、人間は八十八の煩悩を消滅せんがための心身救済の霊場が必要
と考え、
四国の阿波徳島にある霊山寺を起点として、発心の道場(阿波徳島)、修行の道場(土佐高知)、菩提の道場(伊予愛媛)、涅槃の道場(讃岐香川)と4つの道場として右回りの八十八ヶ所霊場を開設すると決心。
弘仁6年(815年)、釈迦如来を感得した霊山寺を一番札所に定めた。
(霊山寺を1番札所とした説とは)
・上方から四国に来る際の最初としての足場が良かったとの説、
・四国の東北で厄除けとして鬼門に位置したとの説、
・密教の阿字五転(発心・修行・菩提・涅槃・利他)の法則に従ったとの説、
など諸説ある。
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辺地の寺院を繋ぐ
四国八十八ヶ所を巡礼すると、
弘法大師が、四国の辺地各地を自身の足で巡錫(各地をめぐり歩き教えを広める)し、困っている住民がいる必要な場所には救済して寺院を開き、札所の点を線で繋いでいった歴史を知ることが出来ます。
お遍路の歴史の変遷
お遍路の当初は、四国辺地での修行は修行僧や行者のみで行われる特別感があったが、平安時代から病苦や様々な悩みなどで救いを求める一般庶民にも徐々に広がり信仰を集めるようになった。
しかし、天正年間(1573-1592年)には、天正の兵火で焼失、一時期衰退した札所も多いが、天皇や皇族や藩主や地元の名士などに支えられ復興。
そして江戸時代に入ると、ガイドブックが発行され人気を博し全国の一般庶民に爆発的に広まった。
その頃には、「辺地」を訪ねる道を「辺路」、そして大師の灌頂名「遍照金剛」の文字であまねく、いきわたる、という意味を持つ「遍」を用いて「遍路」となり、巡礼者をお遍路と呼ぶようになった。
明治時代には、神仏分離令により多くの札所が廃寺になった経緯があるが、間もなく再開。徒歩のみからバスや車で参拝できるようにもなり、再度人気が高まった。
現在では、道路やロープウェイなどが更に整備され、益々容易にお参りできるようになったのです(車ころがしなどの道はまだまだありますが)。
そして現在に至る、約1200年を越えるSDG‘sの模範ですね。
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消滅する煩悩を八十八とした理由
八十八ヶ所の理由は定かでないが、以下諸説ある。
・釈迦が説いた「四諦」の法で「見惑(煩悩)八十八使」が説かれている
・日本人の主食である米の字(米寿も八十八歳)
・男四十二、女三十三、子供十三、の厄年の合計
・大師が釈迦の八大霊塔の土を持ち帰りその倍数に撒いた
・五十三仏と三十五仏を合わせて拝むため、他
因みに、別格は二十霊場あり、八十八ヶ所霊場に加えると人間の煩悩の一〇八となる。
四国八十八ヶ所霊場を巡り気付いたこと
「遍照金剛」という灌頂名を授かった弘法大師。
その意味は、「太陽の如くあまねく照らす慈悲、人を幸せにする仏さまの智慧の持ち主」。
弘法大師が当初志した、「日本(和国)においても、人間は八十八の煩悩を消滅せんがための心身救済の霊場が必要」は、厳しい時代を何度も乗り越え時代と共に変化しながらも、今もなお多くの人を救い続けている。
大自然による怖さもあるが、「同行二人」で大師とともに歩むことで勇気が漲り、大自然と人工物(建物)との絶妙に調和する世界に身を置いてご真言を唱えると、ちっぽけな自身の悩みや苦痛など自然と忘れてしまう。
各札所には、それぞれ深ーい歴史や大師の足跡があり、微に入り細を穿って説明を知ることにより、その歴史や伝説に想いを馳せ自身を見つめ直すことが出来ます。
また、私はこの記録をnoteに認めたところ、嬉しいことにコメントで気付きを与えて下さる有難いお方も。。。
励みになり優しい気持ちで背中を押して下さいましたこと、感謝します。
私は、お遍路とnoteにより多くの福を得たと思ってます。
大師が、お遍路を広めたように、
今後は私の記事が、・これからお遍路を始めたいと思っている方・様々な理由で巡礼に行けない方、のお役に立つことを願ってやみません。
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(参考)
合掌