あの時気になったことを噛み砕く~淡い雲をとどめて その1~
※この「淡い雲をとどめて」という企画は、筆者が日々のなかでなんとなく考えたことをそのまま書いたエッセイのようなものです。論拠など乏しいところはありますが、「こんなこと考えてるんだな」ぐらいのスタンスで捉えていただけると幸いです。
※コロナウイルスそのものがどうかという話はしませんが、「コロナ禍に関する受け取り方」について言及しますので、苦手な人はバックしてください。ちなみにワクチンは3回接種してますし、過激派ではないです。
〇2023年、年末にて。
今回の年末は新型コロナウイルスが5類に移行してからは初めてということで、各所が賑わっていそうな雰囲気ですね。やっと「いつも通り」が戻ってきたようで嬉しいです。2020年の2月からでしたもんね。そう思うとけっこう長いこと続いたんだなって思います。あの頃からしばらくの空気の淀み方は凄かった。それに比べると、今年はそれがだいぶ晴れたのかなと感じました。
とか言いながら、実は職場で久しぶりにコロナにかかった人が出まして。正直「え、いま?」とは思いましたが、一度発生したウイルスが急に消えることはないでしょうから、別に不思議なことでもないですね。それ云々に関わらず、体調管理には気を付けたいところです。今回は暖冬と言われるだけあって寒さはやや穏やかに感じますが、寒いのは寒いですから。
〇誰かのリスクの先で
それはともかく、今回コロナにかかった人が出たことをきっかけに、いろいろ思い返すことがありました。緊急事態宣言やらまん延防止等重点措置やら、あるいはワクチンやマスクに関するいざこざやらなんやらかんやら。肯定する人、否定する人。それぞれ背景や思想的な部分の違いから色んな選択があったとは思いますが、なかには他人のそれまでもを一方的に否定し攻撃するような人たちもいました。なんというか、残念な話だなと思います。
そんなこんなを思い返すなかでふと引っかかったのが、「十分な治験」という言葉です。たしかに、かなり急速に広がったこともあって、承認審査が短縮されたというのはあったように思います。なんか一番新しいワクチンは治験が不十分みたいな話もどっかで聞いたような気がします。あ、うろ覚えなので絶対に信用しないでくださいね。それはともかく、実際、安全性を担保するために制度として定められた数量や期間はあるので、あのときのようないわば「特例」に対してそういう主張があるのもわかります。
ここでは、その「特例」が正当かどうかはとりあえず置いておきます(検証される必要はありますが)。専門外ですし。ただ、「十分な治験が~」という考えは、「自分の安全や安心のためには、それを担保するに見合う数の他者だけがリスクを負うべき」という考えの裏返しなのかもしれません。もちろん、僕ももし治験をされてない薬を渡されたら「えぇ…大丈夫か…?」とはなりますし、治験は新しい医薬品の開発・検証には必要なことだと思っています。ただ、安全に最大限配慮されて行われるとはいえ、治験にだってもちろん健康被害などのリスクはあるわけで、僕らが享受する安全性や安心はその先にあります。
そんななかで自分(たち)だけがリスクを負うことを認めないというのは、とても都合のいい話なのかなと思いました。おそらく、「十分な治験が~」ということを論拠にワクチンそのものを全否定する語り口に覚える違和感は、ここから来ていたんだと思います。じゃあ、あと何人をリスクにさらせば気が済むのか…みたいな。
〇天秤と選択と寛容さ
これは医薬品に限ったことではなく、けっきょく世の中ではなんでもかんでも誰かが何かしらのリスクを負って、安全や安心はその上に成り立っています。そして、たとえ十分な事前検証を行ったからと言って、その先ずっと、誰にとっても未来永劫ぜったいに安心安全なものなど存在しえません。だとしたら、最後は自分たちがそれらのリスクと諸々に対する自身の許容範囲を天秤にかけて、自ら選び取っていくしかありません。
もちろん、そこには一定の知識や判断力が必要となります。そして、自らの選択に対する自らの責任も生じます。言うならばコストがかかるわけなんですが、それはもうなんとかするしかないです。そして、それをどこまでやるかの線引きや判断基準は人それぞれで、ゆえに自分の責任においてどういった選択をするのも自由なわけです。
しかしコロナ禍では、このあたりの寛容さがない人が増えたのかなと思います。逆に言えば、そうなるぐらい大きなことだったんだなとも思います。これから先、もう少しぐらいひとりひとりの選択が、その人のものとして受け入れられるような世界になればいいですね。
それでは。
あ、写真はまったく関係ないです。
エッセイ企画「淡い雲をとどめて」のまとめです。ぜひに。