時折立ち止まって考えたい「なぜ、それをするのか?」ということ
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こんにちは、旅人先生Xです。
今日は、「なぜ、それをするのか?」ということについて書いていきたいと思います。
良かったら、のんびり目を通していってみてください。
目次は、以下の通りです。
「なぜ?」を考えないことって意外と多い?
仕事やプライベートで自分がしていることの「なぜ?」をみなさんはどれくらい考えていますか?
学校で働いていると子どもたちから、「なぜ、〇〇を学ぶの?」ということや「なぜ、〇〇をするの?」ということをナチュラルに質問されることがあります。
そのため、私は、今までは考えていなかったことでも、子どもたちの質問によって考える機会をもらい、自分なりの「なぜ?」に対する答えを持つようになってきました。
もしも、小学校で働いていなかったら、あまり考えなかったことも多くあります。
自分なりの「なぜ?」の答えを持つようになったと同時に、よくわかってないことも実は結構あるということを改めて感じるようになりました。
例えば、「なぜ、小学校の授業が45分がベースになっているのか」ということなどは、文部科学省が決めているからということくらいしかわかりません。
学習に取り組むのにふさわしい時間とのことですが、「なぜそれが45分なのか」や「小学校全学年で一律なのか」といったことは、正直よくわからないです。
もしかすると、運営のしやすさやカリキュラムの関係なのかもしれませんが、想像の域をでません。
このように、自分が当たり前に扱っていることの中にも、意外とよくわからないことって実は結構あるんだなぁと最近改めて感じています。
みなさんは、どうでしょうか。
「なぜ?」は考えすぎないほうがよいのか。
なぜ?と考えすぎるとやる気を失う?
「なぜ?」を考えることでやる気がでたり、納得がいったりする反面、考えすぎるとやる気を失うことがあると思っています。
これは個人的な意見なのですが、私の経験上、しばしば発生しているので、他の人にもそういうことあるんじゃないかなと勝手に予想しております。
具体的には忘れてしまいましたが、納得したくて「なぜ?」を考えはじめ、その過程で納得感を得ていたのに、さらに突き詰めていったら、逆に納得がいかなくなるみたいな経験が何度かあったのです。
また、「なぜ?」を突き詰めようとした際に、どこかで「こういうものだ」みたいな折り合いをつけざるを得ないことがあって、「なんだよ…」みたいな気持ちになってしまったことがあった気もします。
私のやり方がまずかったのかもしれませんが、自分にとってちょうど良い程度というものがあるのかなぁと今は考えています。
時折立ち止まって考えるくらいがちょうどいい?
先ほど書いた経験から、半端な覚悟で「なぜ?」を考えすぎるのもあまり効果的ではないのかなぁ?と感じるようになりました。
そこで、「気になったことのなぜ?を時折立ち止まって考えてみる」くらいにしてみました。
私の場合は、「予想を立てて、自分なりに調べて、また考えてまとめる」くらいの活動です。
今の自分には、これくらいがちょうどいい程度な気がしています。
考えることにもよりますが、私の場合、大体はふと気になったことや経緯が知りたいことについてなので、先のような感じになっています。
研究者なら、もっと突き詰めるのでしょうが、私にとっては、それで十分なようです。
「なぜ?」を考えるのは面白いですが、その際に生まれる理屈や根拠に振り回されすぎないためにも、自分のためになるような方法や程度で上手くやっていく必要があるのかな?と思いました。
今回は以上になります。
最後までお読みいただきありがとうございます😊
ではまた、次の記事でお会いしましょう。
みなさま、皆様、良い一日をお過ごしください。