トイレ? タンス?
文字数:2558字
私たち教師は生徒たちからいろいろな書物を紹介される。私はそんな時にはできるだけ紹介された書物を読むことにしている。自分の好みでは選ばないかもしれない書物が含まれていることが多いからである。
何年か前にも、是非読んでくれと言って1冊の本を紹介された。忙しかったのだが、薦めてくれた生徒の目が何かを訴えているのに気づいて、無理やり時間を作ってその本を読んだ。
「先生、この本に出てくる主人公の父親は父そっくりなんです」
その生徒は目に涙をいっぱい貯めて私に訴える。
私はその本を読んだことがなかったので、どんな父親像が描かれているのか分からずに、ただできるだけ笑顔を返す外はなかった。
彼女は父親のことに言及する時、私が前にいることも忘れているかのように、あるいは、私が目の前にいるが故になのかもしれないが、父親に対して憎しみを込めて語る。
「あの人は・・・」と、赤の他人のことを語るかのように話す。私は耳を貸すだけだ。彼女の目を現実からそらさせないようにする手助けをするだけだ。
「必ず読むから、2,3日待って」
その本を読みながら、私はつらくなってくる。小説として読んでいるのだが、その本の中には重苦しい存在が語られている。現存する人物として読み進むのは苦しいことだ。
読みながら、その生徒の訴える目が私を見つめているように思えて仕方がない。こぼれようとする涙を必死で抑えていたその顔が、その小説の主人公と重なる。
主人公は困った父親(どういうふうに困った存在かはここでは差し控えさせていただく)をとことん愛し続け、時には落ち込みながらも明るく生きて行くのである。
その本を紹介してくれた生徒は、困った父親であるがゆえに、その父親の存在を自分の意識の中から消し去りたいと思っているらしかった。
あるいは既に消し去っていたのかもしれない。小説の主人公の生き方と比べながら自責の念に駆られたのに違いない。
わたしはその本を読みながら、ある本のことを思い出していた。その本もある生徒から薦められて読んだものだ。
題名が
『ヒルベルという子がいた』
という本である。
ヒルベルのヒルとは「脳」、ベルとは「混乱」という意味なのだそうだ。
脳が混乱したこどもは母親に見捨てられて施設に預けられる。生まれてくるときにかんし分娩だったために頭痛がひどく施設から施設へと渡り歩くことになる。
施設の保母さんたちはヒルベルに振り回されてしまい、彼をあまり好きではない。周りの子供たちからもいじめられ、保母さんたちからも可愛がられずに毎日が過ぎて行く。
ヒルベルの行動によって、施設の多くの人々が迷惑を被っているのだから仕方ないことなのかもしれない。
その問題児、ヒルベルが気に入っている場所がある。
彼にとって唯一の安全な場所でもある。彼はその安全な場所に入ると大声を張り上げる。悲鳴にも似た声だ。その場所がタンスの中というのもいかにもヒルベルらしい。
私の子供も幼稚園時代、自分の存在を全面的に出せる場所を持っていた。
幼稚園から帰ると、さっさとトイレに入り込む。しばらくするとその日に習った歌を歌い始める。その日の起こったことを大声で演じ始めるのである。
母親はその日の出来事をわざわざ子供に聞く必要がないほどである。あとは登場人物の姓名を確認するくらいなものだ。
ヒルベルのタンスの中は、私の子供にとってのトイレみたいなものだ。
そこは本人たちにとってこの上もなく安全な場所なのだ。誰にも邪魔されずに秘密を公開できる場所だ。自分の秘密が自分によって暴かれているなどとは露ほども感じていないのだ。
聖書の話になってしまうが、
新約聖書のピレモンへの手紙に出てくるオネシモという人物のことを考えてみた。
彼は主人ピレモンの財産を盗むというとんでもないことをして逃げだしている。逃げ回ったあげくの果てに、囚人として囲われているパウロの元に助けを求めている。そしてパウロがしたためてくれたピレモンへのとりなしの手紙を通して、主人の元へ帰ることが許されるのである。
オネシモにとってはパウロのいるその場所が安全な場所となったのであるが、その場所こそが、キリストが臨在する場所だったのである。だからこそオネシモのすさんだ心が神に取り扱われ、己の悪を認識し、悔い改めるという素晴らしい人生の転換をすることが出来たのであろう。
考えてみるに、私自身も何故教会生活をしているのだろうと自問するときに、そこが安全な場所だからだということに気づかされる。誰も危害を加えることがないから、などというのではない。そこには何らかの解決の道が用意されているからに他ならない。
ヒルベルにしても、私の子供にしても、タンスの中や、トイレの中が何らかの解決の場になるはずはない。そこはただ単に、自分が気を許していることが出来るというだけの場所に過ぎない。大声を張りあげてみたり、親に言えないような緊張の場面を反芻してストレスを解消するだけのことだ。
オネシモが見つけた場所はまさに解決の場だ。あまり居心地の良い場所ではなかったにもかかわらず、彼が最も欲しがっていた解決という素晴らしい宝が隠されていたのである。
オネシモはパウロに解決の道を求めたのであるが、パウロは神にその解決の道をゆだねたのである。
神に直接語りかけることの素晴らしさがそこにはある。
神によって用意されたタンスやトイレが私たちの周りには常に用意されている。自分の部屋であるかもしれないし、通勤中の電車の中であるかもしれない。私たちの思いのたけを神にぶつけていきたいものだ。神は聖書を通して私たちに答えを用意して下さっているはずなのだ。
かの生徒には私はまっとうな回答を用意することはできない。自分なりの助言を与えることはできても、それは助言の域を超えることはできない。私が自信をもって彼女に言えることは一つだ。
「私には祈ることしかできないから。心を込めて祈っているからね」
この言葉が与える力を私は信じている。神が彼女の心に安らぎを与えてくださるからだ。その平安な心の状態の中から、彼女が神への叫びをあげてほしいのだ。