教える立場になったら、
高校生までの、一方的に教えて貰う立場とは異なる状況に、あ、ちょとまてやっぱり書き出しを変えよう….
うんーん…
木漏れ日がやさしい季節になった。視界が、妙にオレンジがかっているように見える。青々とした空は確かにこの目に入れることが出来るが、夏のそれとはまた違う表情を見せている気がする。うん、これでいい。
学生最後の夏が終わった。それなりにしたいこと、するべきこともした。元から「後悔」というものをあまりしないから、特に悔いやまれることもない。今夏の例に漏れずだったけど、学生の間、ずっと塾で働いている。
高校生までの、一方的に教えられる状況にすっかりなれた。知識を共有し与えていく立場にそれなりにあると、「教える側としてありがたいこと」がわかってきたので、ここに残しておこうと思う。
教えやすい人とは
まず、素直な人がいい。こちら側がアドバイスしたことを柔軟に吸収し、耳を傾けてくれる人は、こちらとしても教え甲斐がある。表層だけで本当は分かってないかもしれないので、勝手に「大丈夫そうだなー」と勘違いするのには要注意。
そしてちゃんと分からないことは「分からない」と言ってくれる人。換言すれば質問してくれる人だ。でもこれは難しい。「全部分からない」と「ここが分からない」という大別して二種類の質問があるからだ。前者は「なんでも教えたほうがいい状態」でもあるし、そして「何から教えたらいいか分からない(と思ってしまう)」状態でもある。対して後者は、一部分だけを埋めるようにすればいい。全然ッ違う。
最後に、言語化が上手な人だ。よく喋るという意味で「言葉」にするのに慣れている人もいるし、静かだけどしっかりと言葉を使える人もいる。最初は難しいかもだけど、説明を促したり、問い方を工夫することで、伸びると思うなー。
教えるって、迷路
学習とは、「飛躍」ではないだろうか。そう私は思う。子供たちは、知らないことを知る。簡単に書いてるけど、それってとても不思議なことだと思う。知らない言語が読めるようになったり、抽象的な概念を扱うようになったり。
最近は(実情はよく分からないけど)、とても便利な時代。スマートフォンがあれば、知りたいをことをすぐ知ることが出来る。煩わしい情報へのアクセスを拒否して、自分が好きだと思う情報だけを浴びるように見る。だから、「学校の勉強なんて、というかそもそも勉強なんて必要ない」という人も結構いるかもしれない。
そう。
勉強する前に、それが後の人生で自分に何をもたらしてくれるか分からない。実に不確定。目の前の、楽しくて、刺激的で、ワクワクして、心地よい情報がどれほど魅力的に見えるか。それらは、即時、彼らに何かをもたらしているんだろう。それが、教える立場として難しい所。ぶっちゃけ、私たちだってそれが将来どう役に立つか分からないんよ。知識って、デパートに並んでいる「商品」じゃないんだよね。
いずれあなたを助けてくれるかもしれないけど、それが「今」わかりづらいのが、(特に子供の頃の)学習。それを加速させてくれるのは、彼ら彼女ら自身の「好奇心」でしかきっとない。大切なのは、没入だ。
思えばわたしも、「なんだかようわからんけど勉強するかー」というマインドを持っていた気がする。いや、もはや無意識のような。まぁ学生だし、くらいの感覚だった。もしかしたら、無批判で何でも受容するバカとして映るかもしれない。けど、「これは必要」「これは必要ない」という、お前何様やねんの値踏み精神でなかったことは確かだと思う。少なくとも、私はそれでよかったと思ってる。
だから、「なんでこの勉強が必要なんですかー?」という質問に、私はすごく狼狽してしまう。困ったものだね。ひとまず、「考えそのものより、考え方を訓練すると思って💦」と、逃げ道をつくっておく私です。