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感動について

ーー少年が感動によって変わるお話ーー

命にどれほどの価値があるだろうか。
より善く生きたって、結局、最後に完璧な人間になれない。行き詰まるだろう。数学で、0に収束すると聞くが、僕はその、0に収束した瞬間を未だ見たことがない。当たり前のことだけど。
でも、それを1つの命を使うなら、見てみたいんだ。だって、そうじゃなかったら、僕の命は一体何の意味があるんだ。

僕の人生は結局、土台を作ることにすぎない。それも、誰かのための、未来のための。自分のために生きることはできないんだ。あぁ、なんという苦しみ。それなら僕は死んだっていい。未来なんて期待できない。そもそも今の社会がダメだ。

みんなは全体主義を毛嫌いしている。そりゃ全体主義で、ダメな方向に進んだら、人は核爆弾のように一瞬にして消え去る。だけどさ、民主主義だってダメな方向に進んだら、人は死んでしまう。しかも、一瞬にしてではなく、ゆっくりと溺れて死んでいくんだ。海に沈み、泥に飲み込まれるんだ。子供の時、みんな言ってたじゃないか。

「鉄砲で撃たれて死ぬか、海で溺れて死ぬか、どっちがいい?」

みんなはもちろん鉄砲を選んだ。
だけどみんな今は民主主義で溺死にまっしぐらなのに足掻こうとしない。それじゃあ全く意味ないじゃないか。それなのに全体主義を否定してさ、何がしたいんだよ。まぁ僕には政治が分からないから、どっちでもいいけど。多数が嫌っているものは大体そんなに悪くないってことを言いたかっただけさ。多数は愚かだから。


はぁ、だけどなんで僕が死ななくちゃいけないんだ。哲学もできるし、より善く生きるための方法だってわかってきた。それなのに、俗人のせいで死ななくちゃいけないなんて散々だよ。


チ。というアニメを見たらさ、感動について偉く語ってた。感動のために生きるって。感動かぁ。僕もプラトンの『ソクラテスの弁明』を読んだ時感動したな。だけどそのすぐ後に絶望した。

2500年前にこんなに素晴らしい作品があったのに、なんでこんな世界なんだって。

くだらないや。そもそも感動なんて受動的で、僕が作り出せるわけじゃないよ。僕はプラトンと比べれば何にも持ってなくて唯一上なのは無力さだ。おかしいよ、希望を与える人によって、希望が失われるのは。


でも、なんで感動を贈ったんだろう?
自分のためにならないのに。なんで、感動のために彼らは生きることができたんだろう?

感動には二つあって、感動することと、つくることがある。しかも、この2つは相反していて、時間的に見れば過去と未来の関係だ。
うん、じゃあ同時に行うことは不可能だ。

ん?では感動のために生きることって不可能じゃない?

そもそも僕が生きる理由は人間の生きる理由を追求するためで、感動するためというのは一緒にはできないな。冒険の人生は、行うか、語るかのように、感動の人生は、受けるか、つくるかだ。そこの虚無感はどう埋め合わせるんだ?作っているときには受けれないし、受けているときにはつくれない。


やっぱり、僕は誰かのために生きることしかできなくて、自分を生きれないじゃないか!自分を生きているつもりでも、いつでも追求するならば、その過去は壊されてゆき、僕の命は、何のためにあるんだ!


あの感動は確かに、僕に生きようという力をくれた。だけど、その無力さから死にたいと感じた!
あの感動は僕には超えられない。本当は感動を作りたい!

くそ!なら、この苦しみを受容して、生き続けよう。感動はきっと量じゃない。その時々によって感動は必要とする形を変える。
きっと現在、感動が必要としているのは、この無力さを受容して生きることだろう。あぁ、確かにこれを踏ん張って生きたら未来には感動してくれる人がいるだろう。

それに、真理は感情を持たないから、この苦しみは、己から出たものだろう。感動のイデアからは感動しか与えない。この苦しみはきっと真理の性格ではない。いわば、真理から与えられた試練だ。


もしかしたらだけど、感動することと、感動をつくることって異なることは時間の方向だけかもな。そうであれば、感動することだけを好むのもおかしな話だな。感動すれば、感動を作りたいと思うし、感動をつくることは、未来に感動になっている。

だったら、結局はどちらも同じ方向に進んでいる?

そうか、慣性と同じだ。僕はこの命を生きているから、感動することは、時間が後退しているように見えるけど、実は神の視点から見たら全て同一の方向に時間は進んでいるんだ。

じゃあ、時間は、神から見た人間の成長の距離みたいなものか。

ならば、僕も感動を目的に過去から感動を受け取り、未来へ感動を贈る役目を果たせる。
この世に希望を持つことができる!!

感動のために生きることができる!
もはや、人類のために生きるんだ。そこにしっかり僕もいる!唯一な人間はいつだって必要なんだ!


外見のドッペルゲンガーはいないけど、心のドッペルゲンガーはたくさんいる。だから、誰と話したって同じだから、彼らを、俗人を見る必要はない。

僕は唯一になろう。僕の価値判断を、僕の感動を未来へ贈ろう!
そのためには、まず、感動をたくさん受け取ろう!

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