再版

北墓場

地下道をくぐり抜けてようやく東急ハンズにたどり着いたころには僕はすでにずぶ濡れだった。たかが220円の運賃を出し惜しみ、目的地まで片道40分の距離を歩くことにしたためだ。

浮ついた雨の夜だった。金曜日の夜だ。僕は確かに、久しぶりだから奢ってやる、という旧友の計らいを甘んじて受けた。諭吉の大群が齎してくれる豪奢な夜を想像し、嘲謔の鐘を鳴らす角ハイボールを嬉々として飲み干す様を想像した。しかし気が重い。雨脚は強くなるばかりだ。小さなビニール傘に辛うじて収まってはいるが、それもやがて無用の長物と化すだろう。

浮ついた雨の夜だった。歩いているうちによりどころの一切が行方をくらましたかのように思えた。火を点けたばかりの煙草の先端に、傘の露先から落ちた雨のしずくが当たった。引き返すなら今のうちなのではないか。僕には帰りを待ってくれている人がいるのだ。出かける間際にその人から手渡された5千円札は、僕を再び受け入れてくれるとは限らない飲み屋街の住人たちと過ごす時間のためにあるのではなく、その人と過ごすためにあるのではないか。

浮ついた雨の夜だった。実に3年ぶりの旧友との再会だ。東急ハンズに向かうその道中、水位の増した用水路を見つけてそれに沿って歩き、ときおり立ち止まっては考えた。僕のこの体たらくを改めて認めた旧友が発するいくつかの苦言を想定した。

彼は、既成事実という名の、しかし錆びつき埃をかぶった鉾を僕に突きつけてくるだろう。旧知の仲に甘えた僕はこれに応戦し抗弁しはじめるだろう。そして性急ゆえに聞く耳を持っていない彼はそれを受けもせずに断罪するだろう。それでも僕は諭吉の大群との戯れを拒絶できないだろう。

浮ついた雨の夜だった。用水は今や濁流へと変貌をとげていた。それを眺めているうちに僕は、用水路に眼球を落っことしてしまったかのごとく呆然としていた。やはりこのまま踵を返しちゃおうかしら。金曜日の夜だ。飲み屋街に繰り出しているであろう懐かしい面々が思い浮かんだ。みんなどこかしら愚かに出来ていた。だからこそ彼らは自分が間抜けなのだと気づけないし、自分が世界の中心にいるのだと心底信じている。僕もそのうちの一人だ。愚かで、浮ついている。そしてまさしく金曜日の夜の手招きに吸い込まれようとしていた。

浮ついた雨の夜とは対照的に東急ハンズは閑散としていた。これから自分は本当に人様の金で酒を飲めるのか、と疑わしく思うほどだ。それとも人類はまだ終業時刻を迎えていないのか。「嗚呼、煢然けいぜんたるケルアックたち。オン・ザ・労働」ひとりごちて僕は腕に巻いたニクソンのザ・マーフで時間を確かめた。18:06。約束の時間を少し過ぎていた。しかし引き返す言い訳にはならなそうだ。

僕はずぶ濡れだった。穴の空いた洋服の袖も新品の靴も等しくずぶ濡れだった。しかし浮ついた雨の夜だった。背広姿の旧友を遠くから見つけて僕はすぐに歩み寄った。彼は値が張りそうなハットを試着しては棚に戻していた。一分刈りの坊主頭が白く照っていた。僕はにたついた。そして「よう、おめえさん。またいちだんと、え? 元県知事みてぇな様相じゃねえか」と挨拶をした。何か気が利いた、年相応の挨拶をできるような僕を、彼も望んではいないだろうと思った。しかしたとえそうではなくとも、君よ、望んでくれるなよ。

浮ついた雨の夜だった。旧友もまた浮ついていた。曰く「おまえが行ったことのない店で飲もう」とのことだった。この愚かな夜の日程の大約は事前に知らされていたが、どこへ行くかは知らされていなかった。人には人の事情がある。僕の懐事情は物憂げだ。しかし見ておくれ。我が友の勇姿を。人通りもまばらな雨ざらしの町を足早に歩く友の歩幅を。その歩幅に僕は水を差した。「ジョゼがいたらどうすんの?」

「いや、いない」歩みを止めることを知らない友の断言。「そもそもここ2年、ジョゼの顔を見たのはたったの一度きりだわ」

愚かさが増す夜。確信めいた友に対して僕は、万が一を想像した。それは僕といるところを夫人の学友に目撃される友の姿だ。そして告げ口され、始末書を一筆書かされ、あげく30万円の罰金を請求される我が友の姿でもある。僕にとってこれが友にかける初めての憐憫となるに違いない。雨脚は強くなるばかりだ。

浮ついた雨の夜だった。なんだか面白くなりそうな予感がしていた僕は、早いとこ酒にありつきたかった。まずは瓶ビールだ。キリンの瓶ビールが良い。通いなれた道を懐かしく思いつつ、友に導かれるままいくつかの角を曲がり路地裏に出て、雑居ビルの暗がりへと入った。看板はまだ出ていなかった。友は扉の小さな窓から店内を覗き見た。そして扉を開けた。カウンターに座席が7つの小さな店だった。その半分がすでに埋まっていた。小さなバッグをよけてもらった椅子に僕は座り、友は真ん中の椅子にそそくさと腰かけて、嘘をついて飲みに出てきたことを悪びれることもなく皆に伝えた。

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