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「読書体験」とゲームのこと

職場の先輩が、あまりにも活字に触れない子ども(おそらく小学生)のために、『逆転裁判』(裁判をテーマにしたミステリ系のゲーム)を買い与えたという話を聞き、やはりゲームは読書体験になりえるというおもいを深めるにいたった。


この「ゲームは読書に含まれるか」という問いに対して、ゲームも好きな身としては、どうしても否とは言えない立場をずっととってきた。

が、それはあまりにもゲーム側に肩入れしすぎているかもしれないと自重してもいたのだ。


なるほど、「読書」の究極的な形態としては、ただただ文字だけを読んで、全てを自分の頭の中で組み立ててこそだ、という意見もあろう。

それを否定する気はない。
想像力という自在な解像度でみる世界は、ニンゲンの大いなる特権のひとつだろう。読書はその発露に間違いない。

とはいえ、では、本に対して真実文字しか情報がないと言い切れるかどうかという反論はしておきたい。
何故というに、本はそのもの自体が既に存在として情報を持っている。
例え挿絵のひとつなかろうとも、表紙にはタイトルがその本にふさわしい書体と位置でもってデザインされているだろうし、遊び紙(表紙と本文の間の紙)は、きっと何かしらの色や表情をもっており、表紙やページの触感も想像力には影響しよう。
なにより、書体の持つ雰囲気は、それだけで場を支配する。

例えば、なんとも不安定な書体で、汚い紙(風の印刷)に『厭な小説』とでも書かれていたら、それはきっとホラー系のなにかであろうと察してしまうし、哲学書などのような下手したら凶器になりそうな布張りの本にはきっと難しく、重厚なことが書かれているだろうし、きれいな花やおいしそうなごはんのイラストの文庫本なら、お腹が鳴るようなエッセイが書かれているかもしれない…という風に。

つまり、本を読もうとする時点で、純粋に文字だけでなにかを想像しようとしているわけではないのではないか、とわたしはおもう。


また、昨今では「聴く読書」という形態も、それなりに一般化してきたようにおもわれる。
最早、「読む」という動作にこだわり続ける意味もあまりないのではなかろうか。


もちろん、ゲームの全てに読書体験が当てはまるかと言われたら、さすがにそれはわたしも認めない。
パズルゲームなど、読書体験のなかで重要な、物語を読んで、考えて、想像するという動きがあまりないゲームもたくさんあるのは間違いない。

とはいえ、冒頭の『逆転裁判』のようなミステリ、謎解き系のゲームであったり、キャラクターになりきって物語を楽しめるRPGや、ある種のシミュレーションゲームなどに関していうと、場合によって普通の読書よりも、より深い読書体験を堪能することができることもあるかもしれない、というのがわたしの立場だ。
(実際に小説家がシナリオを書いたノベルゲームだってある)
また、ゲームの読書体験と、本の読書体験のどちらがより上質であるかという点にはさほど関心がない。(どちらもそれぞれに価値がある)


結局、なにが言いたいかというと、ゲームの立場をもう少し認めてやってはもらえんだろうかということ。
「ゲームばっかりして」と邪険にされることが多いけど、読書に匹敵する経験ができるような、ちゃんといいものもたくさんあるから、もうちょっと社会地位が向上してくれてもいいんじゃないかしら…?
「芸術」として美術館に展示されてるゲームだってあるんだからね…?


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