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生き別れた双子に再会したような気分

双子でもないのに。
知らない街の交差点で相手にハッと気が付いて「こんなところで生きていたのか」と驚き、しかも、そいつを手にかけたのは自分だったことを思い出してしまい、その次の瞬間に車にはねられたような、とかくサスペンスフルで衝撃的な出会いだったのが、この『えーえんとくちから』というか笹井さんの短歌で。

ひとつ、ふたつと詩にふれるたび、中学生から高校生時代の自分の体、その感覚に戻っていくような引力があって震える。


最初は本当にわけがわからなくて、なんで涙があふれているのかも理解がおいつかなかった。
青春のアレルギーでもあったろうかと疑ったが、あとから少し冷静になって鑑みるに、あんまり美し過ぎたからだとおもう。

まるで走馬灯のように、様々なシーンがフラッシュバックする。
体育の長距離走を終えてダラダラと校舎に戻るときに見上げた空の高さと青さ、教室の隅の、何かが潜んでいそうな暗がり、窓の外でサッカーゴールを運ぶ生徒たちの小ささ、Tシャツの白さ、図書室から何度も眺めた夕焼け、理科準備室のにおい…確かに、そこで生きていた感覚。
でもすっかり忘れきってしまっていた。

中学~高校時代というのは、「自分」というものの一番きれいな部分の根底にあって、わたしはこういうものを美しいとおもえる人間だったではないかということを改めて思い出せて嬉しかったのと同時に、そういう自分をすっかり殺すように過ごしてきて、そこからあまりに離れてしまって、もう戻れそうもないことに絶望を感じてしまったのだろう。


出会いこそ非常に衝撃的ではあったが、読書体験は意外と穏やかだった。
まずは一通り流してみる。
気になる短歌を何度も何度も味わう。
何度読んでも現時点ではあまりピンとこないものもある。
それでも、休み休みしながら、思い思いにページをくる。
自分の調律をするように、ゆっくりと。
手元にお気に入りの本を置いておく醍醐味を存分に満喫する。

笹井さんの言葉には、瑞々しい、生きていることへの感覚と、死や破壊へのシンプルな共感がある。
ちゃんと生きることへの憧れ(自分がちゃんとしていないことへのかすかな不満)…あの頃、10代の自分も感じていた、自分にはどうすることもできなかった様々なエネルギーを拾い、形にしている。
「ああ、そうだった」といちいち腹に落ちる。何度味わってもいい。

もう落ち着いたので、最初のときのように涙があふれることはなくなった。
それでも涙が渇いていなくてよかった。おかげで心が潤った。


すっかり殺してしまった気でいた半身は、どうやらわたしの目に映らなくなっていただけらしい。
たとえまた見失うことがあっても、これから先は、ここに立ち戻れば思い出すことができるとわかったから、安心して迷子にもなれそうだ。

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