「頑張ること」を手放すことについて
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タイトルにもある通りなのだけれど、これからは「頑張ること」を手放して生きていこうと思う。
前にも、もっとゆるく生きていくことにしたということを書いたのだけれど、今回はさらに「頑張ること」も、これからの僕の人生にはもうなくてもいいのかもしれないと思うようになった。
というのも、なんというか頑張らない方が、人生がスムーズになると気づいたからである。
それはなんだろう、流れに乗るというのか、川をすいーと心地よくなんの抵抗もなく流れていく感覚というのか、そういう感覚をここ最近は感じるようになってきた。
「心地よくスムーズに生きているように感じるのはなんでだろうな?」とふと考えてみたのだけれど、それは「頑張っていないから」じゃないかということにふと気づいた。
頑張るというのは、人によっていろんな受け取り方があると思うのだけれど、僕としては「無理をする」「やりたいことではないけれど、やる」みたいな感じの意味合いが強い。
そして「頑張ることはいいこと、えらいこと」であって、逆に「頑張らないのはダメなこと、よくないこと」というイメージというのか思い込みのようなものがずっと頭に残っていた。
いつくらいからなのかはわからないけれど、多分、小さい頃から「頑張ることはいいこと、えらいこと」とまわりの大人もそうだし、学校とかでもそういうふうに教えられてきたというのか、そういうものだという空気があった。
だから、そういう環境にいると自然と「頑張っていない自分は、ダメな人間なのだ」と思うようになった。
まあ、みんながみんなそうではないかもしれないけれど、僕はいつの間にかそう思うようになっていて、それは学校を出て、社会に出てからもずっとそうだったし、社会もそういう「頑張るのが普通、あたりまえ」という感じだった。
とはいえ、頑張ることが好きではなかった自分が、それでも自分なりに頑張った結果が、適応障害というメンタルの不調であり、仕事ができなくなったどころか、しばらく外にも出れず人に会うのがものすごく怖くなった。
それからというもの、躁鬱というほどではないにせよ、精神的な浮き沈みが強くなり、そして自分でもなんでそうなるのかがよくわからないキツい時期を数年間過ごした。
その時に僕が強く感じたことは「頑張ってこうなるんだったら、頑張らない方がいいんじゃないか」ということである。
もう、世間とか社会の常識とか、まわりの人の目とかどうでもいいと正直に思った。
だってそういう世間とか社会の常識、あるいはまわりの人の言うことを聞いて、自分なりに頑張ってきた結果が幸せではなかったし、誰も責任を取ってくれるわけでもなかった。
だったらもういい、これからは頑張らないで生きてみようと、自分で自分を実験するような感覚で生きてきたのが、ここ数年間だったように思う。
そして、頑張らないように、自分の心が穏やかでいられるように生きてきたわけだけれど、それでも僕はこうやって生きているし、とても幸せを感じられるようになったし、感謝もできるようになった。
それまでは人を羨ましいと思ったり、自分はキツい思いをしてやっているのにズルいとか、妬みのような気持ちもたくさんあった。
それが今となっては、自分がそもそも幸せを感じて生きているから、そういう嫉妬とか執着みたいなものがさっぱり浮かんでこない。
頑張っていた頃よりも、明らかにお金もモノもないけれど、間違いなく頑張っていない今の方が幸せであるし、全てにおいて豊かであると感じている。
とても不思議だけれど。
なので今は、世間や社会の常識とか普通と言われていることよりも、自分で体験してみて、自分で感じたことを信じるようになったし、そもそも、それでよかったんだということに気づいた。
そして、これからはさらにギアをあげると言うのか、もっと頑張らないで、生きてみようと思う。
住む家があって、毎日ぐっすり寝ることができて、必要な分だけ食べ物があって、家族や仲間がいれば十分に幸せだし、何かを成し遂げたいとか、何者かになりたいみたいな気持ちもない。
たっぷりとある自分の時間を、自分を満たすためにいくらか使って、それ以外は大事な誰かのために使って生きていけたら、もうそれでいいんじゃないかという感じがするし、そこにたくさんのお金や、モノは必要もないんじゃないかとも思う。
なんというか、今年に入ってから気づきや学びが多く、それによる心境の変化も大きいのだけれど、そういうタイミングなのかなあと思いながら、また、自分の人生がどう進んでいくのかが楽しみである。