見出し画像

結局誰かが作ってくれるご飯が1番美味しい

先日帰省した際母が言った。
「ニュースの最後のこれいる?」

夜のニュースを見ていた時のことだった。

「これからおやすみになる方はおやすみなさい」

そう言って締められることに違和感なのだそう。まぁこのご時世、まだ寝ない人もいるのだから、「皆様おやすみなさい」と言うわけにもいかないのだろう。

私もそれにならって挨拶をしてみよう。

「一昨日、新年を迎えた方はあけましておめでとうございます」

2024年はプロテストを受けるところから始まった。1月27日のプロテストを受けようとしたのがだいたい2023年の10月ごろだっただろうか。2023年は社会人になった年で、就職は横浜だった。9月の頭くらいに体調を崩した。
出勤の横浜駅のホームで立ってられなくなり、倒れたことも懐かしい思い出だ。

1ヶ月休職し、10月から復帰したものの、12月を迎えるころにはまた倒れそうになった。

その頃から「麻雀プロ」というものを目指し始めた。休職明けくらいからプロテストの過去問にも取り組み始めた。

何待ち問題から点数計算から。
テンパイチャンスはとてつもなく苦手だった。

過去10回分くらい、協会の過去問を解いたが、同時にその限界も感じ、最高位戦やμの過去問にも取り組んだ。

私がオススメしたいのは、μの問題である。
テンパイチャンスがざっと30問。それが何回分もあるから数をこなすのに重宝した。
7700点がまま出てくるので点数計算の練習にはオススメしないけど。

そんなこんなで対策はしながら、それでいて体がろくに動かないので、1日のうちそこに費やせる時間がせいぜい2時間弱である。ベッドに横になりながらネット麻雀を打ったり、そんな生活である。

1日1食もいいところで、当然痩せた。
試しに1番太っていた高校2年生の時の私の写真を置いておく。

2017/7/10

当時だいたい80kgを超えていたから今よりざっと25kgぐらい重かった時代である。

別にここで体調を崩したことだけが原因ではないが、輪をかけて痩せたのは2023年である。

話を戻して、迎えたプロテスト、の前に退職した。
およそその3日前の出来事であった。
プロテストを背水の陣で受けることはあまりオススメはしないである。


1/27(土)の朝、私は横浜から東京の飯田橋まで電車に乗る。朝が早かったことは覚えている。9時ごろ集合だったかな?
私は7時には家を出た。スーツを着て、手袋をして、上着を着て。1時間ほど電車に揺られる。

会場に着くと、同じくプロテストを受けるだろう黒服姿の受験生が集まっていた。
私が驚いたのは、知り合いっぽく話している人がかなりいたことだ。
私なんて友だちもいないし、端っこでちょこんと立っているだけである。

今思うと雀荘で知り合った関係だったり、プロテスト対策講座で知り合っていたりといろんな関係性があったのだろうが、私はそんなこと知る由もない。
緊張感と疎外感が高まる。

試験室に入り、説明がなされた後試験が始まる。
まずは小論文からである。
約400字、時間の限りを使って私は手を動かす。
大学時代から愛用しているDr.グリップが唸っていた。

ギリギリ時間と文字数に収まり、次は麻雀問題1.2へと。最後は一般教養である。

私が覚えている限りだと

「一万円札の時期肖像画は誰ですか?」
の問いに
「新渡戸稲造」

と書いた。
いや、今なら余裕で書けるけど、当時福沢諭吉全盛の時代やもん。
前島密とかその辺で迷った挙句、渋沢栄一は思い浮かばなかった。
あと「捜査」って書けなかった覚えがある。
予測変換に私の漢字力の半分を委ねているツケが回っているみたいだ。

他にもボロボロだった気がするので恥を晒す前にこの辺りで。

とりあえず半分諦め気味で次は約1時間半後の面接を待つ。

よくない体調もあって、どこかに座りたい私がまず探したのは大型のショッピングモールか百貨店である。

「最悪トイレにこもれるから」

というのが大きい。
百貨店とかの中層階の男子トイレは穴場である。
ただ、それも見つからず、商店街しかなかった。トイレを探したが、流石に人の出入りが多く、そんなところで籠城を決め込めるほど私は肝が据わっていないし、私の良心が許さなかった。

結局寒空の下、見つけた石ベンチに座り、コンビニで買ったメロンパンを頬張ったりなんかしながら、ひたすらに時間が経つのを待った。

こういう時、誰かを誘ってカラオケに行くとかっていう選択肢を選べるタイプの大人になりたかった。

面接が終わり、次は実技を待つ。だいたいそこからも2時間の空き時間があった。

ちなみにこの面接では、左手に神尾さん、右手に新地さんがいた。後の同期である。

「2時間また寒空の下で石ベンチ?」

そんなのは嫌だ。調べてみると靖国神社が近くにあるらしく、初詣にでも行こうかと徒歩で片道30分ほどの道を歩き、着いたら人が多くて嫌になったので引き返した。

その後商店街をうろうろしたり、本屋さんに入ったり、各地のトイレを転々としたり、そしてやはり石ベンチに落ち着いた。
そんなことなら並んでお参りしとけよ。

この時およそ4時前後である。私の体力はすでに底をついていた。
きあいのハチマキで耐えてた所長のオクタンの方がHP多いんじゃないか?と思うくらいにはヘトヘトだった。
世の中体力勝負である。で、やっぱりハピナスは優秀である。

ちょっと待ってから実技の試験会場へ。
いよいよ実技試験が始まる。

私の卓は1番真ん中で、最も試験官から見やすい場所であった。

競技麻雀というのは初めてであり、場所決めも事前資料を読み込んだ程度であった私は、ひたすらにサイコロを振る役目を外れることを祈っていた。

その甲斐あってか、サイコロは振らずに済んだ。
ただ、仮親が私になった。
疲労で私の頭は空っぽだった。何も考えられないけれども、気持ちだけでそこに座っていた。

席移動が終わり、私は最も試験官から見やすい席に座り、緊張感だけが高まる。
そんな中、親決めをする前にうっかり起家マークを中に落としてしまう。
牌と一緒に起家マークまで落としちゃダメだ。

我々の卓を担当してくださっていたのであろう二見さんから優しいフォローを入れてもらい、起親が決まる。私は西家スタートになる。ちなみに対面に新地さん、下家に星野さんが同卓していた。
後の同期である。

「よろしくお願いします。」の挨拶の後、配牌を取り、理牌をする。
35点くらいの配牌をもらい

「これを仕上げてやるから見ておけよ」

そんな意気込みでいると、対面の新地さんから

「リーチ」

の声が聞こえる。
私の35点が安牌含みでよかった。

ペタペタ降りていると、3段目も最後の方で親がツモって4000オール。
何これ?なんて思いながら点棒を支払う。

東2局だっただろうか、ようやく見せ場が回ってくる。

私がテンパイを入れ、リーチをかける。
だいたい以下の牌姿であった。

正確な牌姿まではさすがに覚えていないが、とりあえず高め平和、6-9.8m待ちであった。

「6-9mで2000点、8m出たら1300点、裏乗ったら3900点と2600点」

頭の中で繰り返す。リーチ後に5mを持ってきたので、

「8m出たら1300点、裏乗ったら2600点」

を繰り返す。
案の定上家から8mが出たのでロン発声の後、倒牌する。

裏ドラは乗らなかったものの、テンパった私は

「2600!あ、1300…」

私はあの時から準備をしすぎないように気をつけている。

あの対局は私史上最も楽しくない麻雀だった。
所作に気を配りつつ、後ろで見られながら麻雀をする。
決して粗相のないように、事前に送られてきた資料通りの手順を踏んで、勝ち負けには拘らない。
手出しとかツモ切りとか鳴き読みとかいいから、自分のことだけを意識する。

「プロになるってそういうことか」

と思った私の気持ちに偽りはない。
楽しくない麻雀も、苦しい時間もこの先何度となくやってくる。そう悟った。

今では、麻雀教室で教えたりしているが、まず「麻雀って楽しいよね」って思ってもらえるようにというのは心がけている。

プロでもないのに楽しくない麻雀なんて打たなくていいと私は考えているからだ。
何年か経つとこの考えが変わるのかもしれないが、麻雀とは楽しいものであって欲しいという気持ちは変わらないだろう。


実技試験は2半荘打って3着3着だった、と記憶している。
ひたすらに牌を河に並べ続けた。所作は丁寧、かつブサイクだったはずだ。

帰りの電車に乗るや否や、ネクタイを外しうなだれた。

「起家マークを落としたし、新渡戸稲造って書いてるし、まぁダメだったろうなぁ」

そんな諦めの気持ち半分、もう半分は疲れ切って何も考えられない容量制限の分である。
私の活動限界6時間をゆうに超えた1日で、当然の若く翌日動けなかったのは言うまでもない。

結果的に合格通知が届くのがその1週間ほど後のことである。めちゃくちゃほっとした。
ちゃんとできていたのかどうかは今でもわからない。怖くて知りたくもない。

あの日は、孤独と、肌寒さと、体調不良感と、都会で時間を潰すことの難しさを私の体に鞭打つように教えてくれた。


最後に私が面接で話したことを少しだけ

「麻雀プロになって何をしたいですか?」

の問いに

「麻雀が選択肢に入るような世の中にしたいです」と答えた。

世の中には色々な娯楽だったり、コミュニケーションツールがある中で、4人で卓を囲んで遊ぶ「麻雀」の楽しさを広めたい。
特に子どもたちにも麻雀って楽しいっていうことを伝えたい。
みんなに、ではなく、好きな子もいればいいな。
と、そんな具合である。

「今日は何をしようか」の問いに麻雀が挙げられるようにする手伝いをしたい。
そんなふうに答えた。

私は麻雀プロとは、強さを認められたプレーヤーではなく、選手兼アンパイアの資格だと考えている。
もちろん強くなる努力も認められる努力も必要だと考えてはいるが。

いつまで続くかわからない麻雀プロとしての活動の中で、その有言実行に近づければいいなと思うのです。

今具体案を持ち合わせているわけでも、説得力を伴う結果があるわけでもない。

まずはできることを。
目先の2年目、2025年、しっかりやります。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集