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人口が戻りつつある町・楢葉町【福島被災地レポ・6/8】

楢葉町は、2015年に避難指示が解除され、人が戻り始めて約3年の町。
福島第一原発の南側だが、除染が必要な土地が多いことがよくわかり、バスで走る間、汚染土を一時保管している更地を多く見た。
 

コンパクトシティ施策を打っていて、スーパー、ホームセンター、交流館、診療所などが一箇所に集まっており、その周りに災害公営住宅が立ち並ぶ。
震災前は人口約8000人、現在約3500人。
作業員さんたちが多いから、元の住民が3500人帰ってきたわけではないけど、人が戻りつつあることはたしか。
 
私たちは楢葉町の天神岬にある「しおかぜ荘」に泊まった。

キャンプ場として整備されていて、この日も平日にもかかわらず数組がキャンプに来ていた。
BBQやサイクリングが楽しめて、子供用の遊具も充実していた。
 
「まさか天神岬でBBQして、笑えるようになると思わなかった」
夜、地元の方と飲んでいて出てきた言葉。
被災後のショックの大きさは計り知れない。
 
楢葉町の役場職員の方から、被災直後の混乱の話を聞いた。
「もう、最悪ですよ。人間の汚いところを全部見た」
「金や食糧に対する欲のかたまり」
「こっちも被災者なのに、配慮は全く無い」
そう、役場職員の方も被災者のひとり。
家に帰りたいし、家族が心配なのに、町の人のためにと必死に働いていた。
 
もう一つ、強烈な話がある。
地震当日、楢葉町は海辺の集落が津波で丸ごと流されてしまった。
内陸側の高台に立つ家々は津波の被害を免れた。
 
地震翌日、福島第一原発が爆発した。
海辺の集落に家があった人は、原発事故による被害は受けていないということになり、
高台に家があった人は、原発事故による被害が大きいということで、賠償金に大きな差が付けられた。
 
「僕の実家はこの下の集落(写真奥の更地になっているエリア)にあったんですよ。僕は家が流されて家族ごと避難も余儀なくされたのに、家が残った人の方が賠償額が大きい。そしてその人たちの手続きや対応を手伝わないといけない。理不尽だなあと思いましたよ」
私とほぼ同い年の、役場職員さんの言葉。

論理的には、有限の賠償金を配分しようとすると何らかの基準を設けなければならないのは至極当たり前。
でも、受け入れがたいよなぁ。
 
楢葉町には、前述の役場職員さんをはじめ、若者の力が入っている印象だった。

「ならはCANvas」という交流館がオープンしたばかり。
ここを案内してくださった方も、私とほぼ同年代の女性だった。
彼女は関東出身で、京都の大学へ行き、なんと双葉郡で就職したという。
ついこないだまで同じ京都にいたのに、私は東京へ来ることを選び、彼女は双葉郡へ来ることを選んだ。
この選択は多分今、日本で一番難しい選択だろう。
自分の中で折り合いをつけるのも、親や身内の理解を得るのも、大変だったに違いない。
こっちに来ても、人が少ない中、人脈を作り、強い信頼関係を築かないと仕事にならない。
実際、お話していると苦労話は尽きないようだった。

この交流館は住民の声を取り入れるため、ワークショップを10回以上も催し、作り上げた空間。
作るまでの過程でも交流を深めるきっかけになった。
今夏オープンし、利用者は多いらしい。
例えば朝、新聞を読み来る人がいたり、ママさんたちが情報交換の場としていたり、パキスタン人(?)の方がカレーを振る舞ったり、楽器の練習をしに来る人がいたり。
 
楢葉町は人口が戻りつつあり、若い力が入り、復興の波に乗ってきている町という印象を持った。

《つづく》

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