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22.2.9 マウントを取るほど心が荒む。心の麻薬を辞めるには

こんばんは、多部栄次です。
毎日日記やっていきましょう。

自分のもつ非常に嫌な部分に最近気付いたので、それを受容しつつ改善しようと思います。それはおそらく他の方々も陥りやすいポイントなのかなと思いこうして日記に書き留めます。

それは自分を優位に立たせる言動と思考です。平たく言えばマウントを取ることですね。

人間は比較してしまう本能をもっているので、それが裏目に出ると自分が優れていることを自覚したくなります。

それが自分自身との比較であり、「昨日より今日の自分の方が優れている」、「俺は成長しているぞ」という例ならそこまで問題視されませんし、幸福度も高いでしょう。

しかしこれに他人の評価が加わると一気に不幸ルートに陥りやすいです。その理由は他人の評価で行動するようになり、やがて自分を失いかねませんから。
ただ厄介なことにこっちの方が嬉しく思う比率が圧倒的に高いんですよね。惰性で飲むビールかめい一杯仕事頑張った後に飲むビールかってぐらい気持ちよさが違います(よくわからん例え)。

それでも相手を乗り越えてやるという意味で努力する姿勢は個人的には尊敬します。この先の時代、競争より共創・協奏が求められますけども、結果的に自分の成長に繋がっているのであればいいかなと思います。

ただ、人を蹴落としたり粗を探してマウントを取ったり、バカにしたり、下に見ることをしてしまうと、その人を傷つけるにとどまらず自分自身の価値も一気になくなります。極論ですが誰もが見惚れ、寄り添い、大切にするほどの宝石から、誰も寄り付かせない腐臭漂う汚物に変わります。

心理学も精神医学も一切学んでないので素人の戯言に過ぎませんが、人の心って簡単に染まるんですよね。そのためそういった汚染された心に接触すると感染して自分も汚染された言葉を吐き、行動に移ってしまいやすくなります。

厄介なのが、依存性があるんですよね。愚痴や悪口を言えば、その人より自分は優位に立ちますし、優越感に浸れます。自分という存在は正しいんだ、認めてもらえているんだという承認欲求も満たされることでしょう。

本能に触れる部分なのでそう思ってしまうことは仕方ないにしろ、制御しなければ自分自身がいつの間にか馬鹿にされる立場になりかねません

そう言っている僕自身も依存してしまっています。
例えば、僕は「小説家になろう」や「カクヨム」という小説投稿サイトで小説を書いております。執筆というのは大変な作業で、数年続けている今でも学ぶことは多いです。そのため、参考にといろんなネット小説・ライトノベル・一般小説を読んで学んび、フィードバックしては自分の文章へと還元することに努めています。

ただ、それでも読まれないとなると寂しいものがあり、承認欲求に溺れることもあります。そんなときに、レビュー動画を観て自分を優位に立たせて脳内物質を分泌させるんですよね。これどういうことかを以下に書きます。

ネット小説にもコンテストがあり、大賞を受賞すると書籍化やコミカライズされるんですよね。商業用の書籍として発行されたものをレビューする動画がYouTubeでよく挙げられています。それを視聴して何がダメなのか、ツッコミどころや矛盾点を投稿者は指摘するんですよね。それが気持ちいい。

「自分の作品はこれよりひどくない」という優越感に浸るんですよ。

もちろん反面教師として、読者がどこに着目しているのか、何がNGで、どうしたら面白く書けるかを学ぶために見ているのもあります。

が、それ以上にそういった評価の低い作品に対して小ばかにしたいという気持ちもないといえば嘘になります。そこにコメントはしませんし、原作小説の感想欄に書き込むこともしませんが、心の中で気持ちよくなっている自分がいることも事実です。

そういう薄汚い部分をもつ自分がとてつもなく嫌いですし、直したいと思います。でもまずはそういう自分がいることを認めることが先決です(それが難しいんだよな)。

結局は自分の作品が評価されたいという承認欲求を満たし、優越感に浸りたいという欲望に基づいているんだと感じます。

見方を変えれば、何かに執着しているとも表現できそうだなと感じます。手が痛くなるくらいに、その承認欲求を満たすものを必死に掴んで離さない。そこだけを見て力一杯に握りしめているとどんどん苦しくなります。

この執着という手を離さない限り、自分はその広いようで狭い世界の中から外に出ることも叶わず、世界の広さを知ることができない。手元にあるからといって容易に掴むと、それをもぎり取りたくなるのが人間の性ですね。

ですので、なにかを知ってマウントを取りたい、バカにしたいという気持ちになったら「あ、俺はいましょうもないことに執着しているな」と俯瞰して深呼吸し、一歩下がるとものが見えやすくなります。掴んでいた手も別のものへと手を伸ばせることでしょう。自分がマウントを取ったところで、得られるのは短期的な快楽だけですから。長期的な快楽を得たければ、自分を越えることに帰結するかなと感じます。

自分という石を誰かにぶつけずに磨き続けていれば、泥がつくことなくどんどん綺麗になります。それは自然と輝きを放ち、気がつけば誰もが見惚れる石になることでしょう。

反して、誰かに当たって傷つけた石はただ地面に転がり、見向きもされないものとなってしまいます。それは宝石も同じことです。輝く宝石も使い方を誤れば人を傷つけ、すぐに石ころになります。心も同じことが言えるかなと僕は思います。

なんだか抽象的な話になりましたが、話をまとめます。
人を見下し、自分を大きく見せようとすると、自分が見下され、小さい自分に見られてしまう。これを言いたいです(自分自身に)。ちょっと自分にも刺さってますね。僕も虚栄心が強いですし、大きく見せようと背伸びしていることが周りにばれてますから。

そんな小さくて薄っぺらい自分をなんとかして改善したいですね自分が「これ言いたい! すごいっていわれたい!」と思う瞬間はいくつもあるかと思いますが、そこをグッと堪えるのもひとつかなと。「これ欲しい! でもお金ないから我慢する」という経済思考に似ています。

自慢やマウントを取るほど、心の貯金はなくなります。そこでグッと我慢して貯金をためれば、豊かな人間になれることでしょう。心の貯金をして懐の温かい、あるいは大きい人になれたらいいなって僕は思います。こうして口だけでなく、行動に移していきたいですね。

かつてとある経営者の方に「金のような人になりなさい」と言われたことがありますが、それについてはまた後日お話したいと思います。

それではおやすみなさい。明日も良い一日を。

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