今年も憧れのフォトグラファーさんの個展に行った話|1人を理解すること
昨年、憧れのフォトグラファーさんの個展に伺ったことを記事にしました。
ありがたいことに、多くの方にご覧いただきまして。
主催者様であるビーバーさんにもご覧いただき、恐悦至極の体験でした。
ビーバーさんは今年も柊里杏さんとの写真でグランプリを見事獲得され、個展開催。
すばらしいの言葉では足りないほどの偉業です。
その個展「つなぐ」に、今年も伺ってまいりました。
これまで2年間ポートレートを撮ってきましたが、0.1%くらいかすかに、自分の写真を言語化するという段階へようやく至った気がしています。
現在の自分が1年越しにビーバーさんとお話をしてみて、
「羨望とイデオロギーの狭間に個性があるのかもしれない」
なんて思った話を。
作品の感想
昨年の展示でも思ったことですが、視点の拡張には驚かされるばかりです。
健常者である私の見ている世界よりも、車いすユーザーのビーバーさんの方が広い世界を見ている、と断言できるほどに。
何より、全体を通して優しい世界が広がっているのです。
四季折々の花や風景と撮っておられるので、その場の温度や質感まで感じられるのですが、それでいて温かい。
写真は画角内しか切り取れないので、カメラの外側の風景というのは伝わりません。
同時にその1枚を撮るに至ったストーリーも伝えきれません。
そんな見えない部分ですら見て取れてしまうような、人の温かみ。
全体を語るとぼんやりしてしまうので、もう少し細かく見てみます。
3年という年月の厚み
写真展、そして写真集「つなぐ」は、ビーバーさんと柊里杏さんの3年間の作品になります。
この3年という年月の厚みを、ひしひしと感じました。
バリエーション豊かにいろんな場所をまわった記録もありますが、毎年同じ時期・同じ場所で撮った写真もあります。
特に後者は、確かな時間の流れや変化が感じられます。
それは風景もしかり、モデルさんの見た目や服装の好み、関係性なども。
写真という1枚絵から見える時間軸は、私も描いてみたいと願うもの。
これは技術だけでは足りないのかなと考えています。
ビーバーさんと里杏さんの作品から「時間の流れ」を読み取れました。
なぜ流れを感じられるのか。
どのような表現がそうさせているのか。
という問いをもらいました。
共通していた感覚
ロケーションや服装の決め方についても伺いました。
私自身の感覚があっているのかも確かめたかったもので。
内容を要約すると
・基本的には場所先行でロケーションを決めている
・事前のコンセプトはそこまで練らない
・衣装は里杏さんにお任せしている
とのこと。
ある種の役割分担ですが、これがベストマッチしているように思えました。
ビーバーさんの場所選びのセンスと切り取るイメージ、里杏さんのファッションに対する感覚が、それぞれ最高の形で相乗効果を発揮しているのです。
極上の素材を生かしたフランス料理、それに合わせて出されるワインとのマリアージュのような。
私が撮影行程を組む際も、ロケーションは自分で、衣装は役者さんに、という形でやっています。
共通している部分があるというだけでも、嬉しい気持ちになりつつ、間違ってはいないんだという安心感がありました。
感想のまとめ:いい展示をしてみたい
これまでいくつも写真展示を見てきました。
合わせて絵画をみに美術館に足を運んでみたり。
そんな中で、「自分が納得のいく、いい展示ができないか」という考えが浮かんできています。
一般的なポートレートの写真展は自分に合わない気がして。
色んな展示を見て回って、展示したい欲とワガママが競り合っている状態です。
ビーバーさんの個展はひとつの理想的な展示だと、2回見て感じました。
しかし個展はハードルが高い。
そんな折、コンセプトに共感できるグループ展と出会いました。
現在検討段階ですが、2023年に展示を1回してみたいと考えています。
目指すは理想像のような、伝わるもの。
そして私個人のできることやアイデンティティの表出も併せたもの。
そんな話しをビーバーさんにしてみて、背中を押してもらったことがとても嬉しくて。
前回は「すごいなぁ」で終わっていましたが、一年経て自分も一歩前に進めた観覧になりました。
またの展示を楽しみにしております。
それでは。
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個人的な所感:フォトグラファーの存在と被写体の意識、そしてイデオロギー
ここからはビーバーさんとお話を伺って、私が思ったり考えたりした内容です。
完全にオマケ自分語りコンテンツなので、お腹いっぱいだよという方はブラウザバック推奨。
昨年今年と個展に伺って、「憧れだし、考え方やモデルさんとの関係は尊敬しているけど、同じ写真を撮ることは目標にしない」という結論を出しました。
ポートレートを撮ってみて、そしてここnoteで文章を書いてみて。
裏側でいろいろ考えたり、役者さんと話をしてみたり。
その中で「自分という存在に対する違和」なるテーマが根底に存在するという認識をしてきました。
ビーバーさんのお写真のうち、いくつかにはビーバーさんの存在を感じられるものがあります。
写りこんだ影であったり、里杏さんの瞳に映った姿だったり。
はたまた情景や表情から、誰かの視点であることがうかがえるものであったり。
私の考えは、私自身の存在を一切消したいというもの。
影や瞳への映り込みはもちろん、役者さんとの関係性すら感じさせないものがいい。
例えるなら、ミレーの『オフィーリア』のような。
『風景のように、スナップのように、小説のように』でも述べているのですが、絵本を開いた時の子供の視点くらいに落とし込みたいのです。
あくまでその世界や物語の傍観者であるかのように見せたい。
役者さんには、私やカメラに対して意識を向けず、その世界で閉じた意識でいてほしい。
また『自己愛』という根底のテーマに対して、現状は「役者さんひとりひとりの自己愛の表現」について検討をしているところ。
その(少なくとも)写真からは、私の姿は直接・間接かかわらず見えてほしくない。
そんなイデオロギーの表現の果てに、私自身の自己愛が醸成されるのではという仮説へのアプローチがしたい。
これは私が私であるアイデンティティ、もとい現状依存している論拠。
それをずらしてまで理想像として据えるのは、誰も幸せにならないと思い、写真そのものに対しては目標にすべきでないと考えました。
一方で、役者さんとの関係性を築いて理解をする必要があります。
その点においては、ビーバーさんと里杏さんの関係性というのは、非常に理想的と感じました。
写真集『つなぐ』に書かれていた文章をみて、より一層強く。
現在すべきことについては、ある程度整理ができ始めています。
個展を観て得たものを活かして、写真展に向け制作に励みます。
それでは。