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写真に”言語化”は必要ない
写真の上達法で99割見るトピックス「自分の写真を言語化してみよう」。
これに反論していく記事です。
多くの人が言う「言語化」は「説明」に過ぎないから必要ないです。
読んでいってやっぱ合わないな、を避けるために総論を最初に。
・写真は「説明」すべきでない
・写真のロジックは万能ではないどころか眉唾が混ざっている
・必要なのは(任意の人物)の美的感覚の理解、プラスアルファで言語化
順に行きましょう。
写真は「説明」すべきでない
この世で最もサムいワードのひとつ「(自分のギャグがスベって)いまのボケは~」。
つまるところ自分のアウトプットが主張ないし具体性を書いているがゆえに言葉を添える必要がある場合、これはサムい。
どこからどこまでを説明とみなすかは深い問題ではありますが。
私個人は「使用機材」「設定値」「構図」は文字情報にして伝える必要がないと考えています。
私が言うとサムいから。
ここで想定されるのが、写真の本質のひとつたる再現性の保証の否定である、という論。
同じ場所で、同じ機材で、同じ設定値で、同じ構図で撮れば同じものが撮れる、という点は他のアート作品にない写真の特性である、と。
絵画や彫刻、建築などでは成しえない再現性は、写真を写真たらしめるアイデンティティであろうと。
そのコンテクストで語る場合、つまり写真の技術を純粋に評価させる土俵であるなら、説明が求められたり必要であったりはします。
否定はしません。
ですが必須ではない。
目的が写真であれば必要ですが、アート・表現のツールとしての写真であるという立場であるなら、時には邪魔になります。
使用機材が重要ファクターたりえる場面がアートの側面でも求められる場合だってあります。
代表例として写真新世紀でグランプリを獲得したHiromix。
彼女はコンパクトデジタルカメラで作品を作っている、という当時の潮流において転換点となるような活動をしていました。
ストーリーラインとしては「女の子写真」なる現代の感覚からすると色々問題がありそうなフレーズと相まって時の人となっていく、という事例。
Hiromixの機材云々の話が説得力を持つのは、それが他人発信で語られているから。
自分で「これコンデジなんねんで~」と吹聴していたら、私なら萎えちゃう。
機材も設定も構図も、自分から「これはこうで~」と語るよりも、観た人がどう感じたかで語ってもらう方が絶対いい。
写真のロジックは万能ではない
初心者講座で、上述の機材・設定・構図について叩き込まれます。
これ自体は間違っていない。
オートモードで設定はどうにかなったとしても、目的と違う機材だったり、なんか眠たい構図になっていると、残念だなってなりますから。
一方で特に構図において、「そりゃコジツケだろう」と言わざるを得ないものがゴロゴロしています。
代表例が黄金比。
そもそも黄金比が何なのか、説明がつくだろうか、という話。
よく言われるのは「1:1.618」ですが、この”数字自体”には全く意味がない。
原理的には「$${a : b = b : a + b}$$ の比で表されるaとbの比」であって、これはa=1とすると方程式$${b^2 - b - 1 = 0}$$の解に等しい、というもの。
この処理自体はフィボナッチ数列の導出と同じ原理で、黄金螺旋と呼ばれる絵が描けるのも自明というか同じものを別の言い方してるだけです。
「黄金比だから美しい」のか、「美しいから黄金比とみなす」なのか、を混在させて説明する人物が後を絶たない事実が雄弁に物語っています。
因果関係をしっかりと説明できない。
「この写真は構図が整っていて美しい、それは黄金比だからだ」と説明されていても、実際には厳密な黄金比ではないけど押し通す、という詭弁によって”説明”するための”根拠なき根拠”を作り出しているに過ぎないです。
黄金比の怪しさについてはGIGAZINEの記事が参考になるので参照。
私なりに解釈した魔要約だと「任意の箇所に任意の黄金比っぽいものを見出している」「人間は正確に黄金比を認識していないし、黄金比こそが美しいとも認識していない」。
もし黄金比が美学の秘訣であるならば、黄金長方形に近い形が常に選ばれると考えられますが、その結果は毎年バラバラになるとのこと。また、ハース・ビジネススクールの研究によると、消費者が選びやすい製品のパッケージは黄金比の「1.6180」ではなく、平均で「1.414」または「1.732」の比率を持つ長方形が好まれることがわかっています。
https://gigazine.net/news/20150414-golden-ratio-biggest-myth/
一事が万事。
「三分割構図」がなぜ”三”なのか、どの線を基準とするのか、などかなり恣意的だったり、そもそも認知科学的エビデンスが示されていなかったり。
「消失点構図」や「放射線構図」に至っては構図というより絵画で言う透視図法のような“モノの見え方”の説明になっていたり。
ここでは構図をやり玉に挙げましたが。
構図に限らず、技法の言語化は理解の助けにはなるものの、つまるところ要素還元主義的な振る舞いであって、それは説明でしかないのです。
再現性という科学的な正しさを裏付けるステータスに根差してはいるものの、これは因果関係を立証するものではない、です。
必要なのは(任意の人物)の美的感覚の理解
「なぜ美しいか」を考察し理由を言語化する試み自体は、その根拠を明確にしようとしたり、再現性を求めようとしたり、説得力を持たせたり、という点においてはよい行いだと言えます。
しかし上述の通り、要素を構築していくという逆順のプロセスが正しいと立証されるワケではないです。
その一葉が「なぜ美しいか」という点はそうとう複雑に要素が絡み合った、複合的な要因で成立しています。
一つの写真を説明することができた要素が、普遍的に導入可能なツールなのかという面は全く別に検証する必要があります。
○○構図自体が論者独自に導入した謬説、と説明という体すら成していないケースもあって、もうオンラインサロンで自分のアート作品の片づけ権利を販売していたようなアレと同じ匂いを漂わせていることもあります。
反対に言語化の対極に位置する単語が「エモい」。
ひと単語で「懐かしい」「ノスタルジック」「特定の感情が惹起させる」「こんな風景見たことがある」「幻想的」などなど任意の感情が揺れ動かされたさまを言い表すことができる言葉として、近年地位を確立しました。
私が提唱するのは、任意の人物の「エモい」を具体化、つまり美的感覚や心理的な動きを言語化する営み。
この任意の人物は本当に任意で良くて、あなた自身でも、友人や恋人でも、SNSのフォロワーでも、コンテストの審査員でもいいです。
「エモい」と思わせれば勝ち。
仲のいい友達に写真を見せることが楽しみなら、「この前行った場所キレイだったよね~また行こうね」と言ってもらえるように。
SNSのフォロワーへのウケやバズを狙うなら、「ノスタルジックで共感する~」がウケるな、みたいなプラットフォームの傾向を見て。
コンテストでの受賞を目指すなら、過去の受賞歴や審査員の好みを分析したり。
それぞれの美的感覚を理解して、言語に起こすならこうだろう、を目指すことが確実。
ここからは個人的な話を。
私自身は「目の前の一人に、自分の好きな表現を投げかける」ことがミッションだと思っていまして。
自分の美的感覚の理解と言語化
私は「○○の絵画のような」という言語化がうまく行く人間です。
私はよく「モネの絵画のような写真が好き」「ルノワールの肖像画のようなポートレートを撮りたい」と、モデルさんに説明しています。
たとえば「影を青や緑で表現すると季節の情景に浸れる」とか、「色と色の調和で部分と全体を構成するのが好き」とか、「人の肌や髪、瞳はたくさんの色でできている」などなど。
挙げたものはあくまで言語化したものであって、実際の心情までは十分に伝えきれません。
相手に言葉で説明しきれない情報、つまりビジュアル由来の情報は実際に好きな絵を見てもらっています。
モネの《積みわら - 夏の終わり、朝の効果》、ルノワール《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》から受ける印象が自分にどういった感想を惹起させるのか、については見てもらってコミュニケーションを取ることがいちばん。
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Wikipedia「積みわら」より引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%8D%E3%81%BF%E3%82%8F%E3%82%89
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《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》
Wikipedia 「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」より引用
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%AC%A2
行動としては「自分はこういったものを好きと思う」という引き出しを増やすことを大事にしています。
写真上達術で言われる「いいと思う写真を100枚選ぶ課題」がそれに該当するでしょう。
100枚選んでその傾向を観るもよし、ひとつひとつの何が好きと思うか考えてもよし。
ここで大事なのは言語由来の思考プロセスと、ビジュアル由来の思考プロセスの両方で捉えマージすること。
私の場合は絵画が多いですが、写真でも、彫刻でも、ファッションでも小説でも映画でもOK。
人類のこれまでの歴史において、すでに手垢が付いていないまっさらなブルーオーシャンは存在しないと言ってもいいでしょう。
結局誰かのオマージュであるのなら、オマージュ先を増やしていくことが大事かなと考えています。
写真を言語化するなら説明ではなく解説を目指す
上で述べたのは、写真を撮る前の段階の話です。
事前に理想のビジョンを描いておく作業。
対してアウトプットされたものに対しての言語化が必要なシーンも多くあります。
その場合には説明ではなく解説を目指しましょう。
ちょうどよくサカナクションの山口さんが、ご自身の曲について解説されている動画が良かったのでシェア。
1曲目「ユリイカ」の解説がすごく染みる(4曲ともいい曲なので通して見るのオススメ)。
幼少期に北海道の実家で見た、ドクダミで茂った庭、そこで草むしりをするお母さんの背中、東京に来てからのギャップなど、ご自身の経験から曲を構想したことを語っています。
曲だけでは分からない背景情報は、ここでは解説と考えます。
個人の経験や思い、背景情報、制作にあたってのプロセスなど、作った本人でないと知りえない切り落とされた情報を伝えるのです。
説明を全くしてはならないということではなく、メインは込めた思いや仕掛けなどの解説で、サブの説明として「シングルにするうえで変えた」「ここでベースライン変わるのカッコいいよね」など何が好きかに根差した内容で語る、というスタイルがいいと動画から見えます。
風景写真を例に、説明と解説を対比してみましょう。
「○○県△△山の夏。□□社のカメラとレンズで。」が説明。
「趣味として山登りをやってみようとなって、一番最初に挑戦したのが△△山。そのときはリタイアした。再挑戦したときに山が見せてくれた雲海に、この先自分は山に登り続けるんだなと根拠なく思った」が解説。
この方針は、過去の私の展示でも目指すようにしています。
どのメーカーのカメラやレンズなのか、どこで撮ったのかは余計なので積極的には明かさず。
どういった思いで写真をセレクトしたのか、どう観てほしいか、どんな思いで撮ったか、などを言語化しています。
写真仲間から技術的に評価されることは少ないですが、興味を持ってくださった来場者さんから「共感できた」と言ってもらえるのはアート寄りの特権かな、と。
まとめ
もう一度おさらい。
・写真は「説明」すべきでない
・写真のロジックは万能ではないどころか眉唾が混ざっている
・必要なのは(任意の人物)の美的感覚の理解、プラスアルファで言語化
写真という機材の技術力が及ぼす影響の大きいジャンルにおいて、説明することのメリットが大きいことは確かです。
特に機材趣味が強い方同士であれば、共通のトークテーマになりますし。
ですが一歩アートに歩み寄ってみて、新しい表現をしてみることも楽しいですよという記事でした。
あなたの作品に何かアクセントが加えられたらうれしい。
それでは。
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